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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

トップ競泳選手を育成、フェニックス・スイム・クラブ(3)

2015年10月号

 チャールス・キーティングが作ったザ・フェニシアン。そして同時に、世界一流のスイム・クラブを創立して、そこからトップ競泳選手を陸続と輩出しようとしたのもキーティングだった。その彼の意図通り、今でも指折りの競泳トレーニングを提供しているフェニックス・スイム・クラブ。今月は、スポーツ出版を長い間手がけ、しかも競泳トレーナーとしても活躍してきたブレント・ルーテミラー(Brent Rutemiller) 氏を訪ねて、フェニックス・スイム・クラブの出発から今日の変遷を語ってもらった。
 氏は、超一流だけを採用したキーティングの目にかなった競泳トレーナーとして、スイム・クラブに招かれた。いわば、彼は、フェニックス・スイム・クラブの誕生とその成長を知る一人である。

移転前のフェニックス・スイム・クラブ
ブレント・ルーテミラー

 

 すでに16才の時からトレーナーになっていたというルーテンミラー氏。
 現在、フェニックスでスポーツ・パブリケーションズ・インタナショナル社のCEOを勤め、また、「スイミング・ワールド・マガジン」の発行人でもある。彼は、水泳競技や関連情報を世界中に発信するスイミング・ワールド・ラジオとスイミング・ワールド TVも立ち上げ、競泳分野で実にユニークなメディア・プログラムを運営している。
ルーテミラー氏の競泳トレーナーとしてのキャリアは、世界でもずば抜けた輝かしい成果を残してきた。全米スイムコーチ連盟で最高レベル5に認定されている彼は、全米代表競泳チームのコーチとして活躍した。
 そんな彼にフェニックスのスイム・クラブから声がかかった。当時、アリゾナの超一流リゾートホテル、ザ・フェニシアンを作り上げたチャールス・キーティングが、これまた超一流のスイマーを生み出すスイム・クラブを立ち上げようとしていたのだ。そして、ルーテンミラー氏がそのコーチとして、迎え入れられた。こうして、1988年に、彼はフェニックスの地を踏むことになる。彼は、クラブ施設の設計と建設に直接関わり、スイム・クラブを完成に導いた。施設の完成とともに、若手競泳選手のコーチングを始めた彼。何と一年以内に彼のチームがアリゾナ州エイジ・グループ選手権で2回も優勝。チームの選手たちは数多くの州新記録を達成し、次々と全米のトップクラスにまで成長するようになった。その中の一人がキーティングの孫、ゲリー・ホール・ジュニアだ。彼は、ルーテミラー氏から訓練を受け、1996年のアトランタ大会、2000年のシドニー大会、2004年のアテネ大会と、3回連続でオリンピックに出場。合計で金メダル5つ、銀メダル3つ、そして銅メダル2つを獲得した。

 
フェニックスのあの日

 1989年 5月のある朝。ルーテミラー氏は、スイム・クラブの設計図を前に事務所で仕事をしていた。事務所は、チャールス・キーティングが営業しているリンカーン・セイビングズ&ローン社の社屋内にあった。すると、突然、社屋の外からヘリコプターの音が聞こえてきた。それは、FBIの強制調査が入った時だった。たぶん空中に飛ぶヘリコプターは、それを報道するテレビ局のものだったのだろう。

   
何が起こったか

 1981年、共和党のロナルド・レーガンが第40代の大統領として選出された。レーガン大統領は、「小さな政府」を標榜し、軍事支出の増加と、減税そして規制緩和を柱とした富裕層や金融業者に有利なマクロ経済政策を実施した。
 そして、1982年にセイビングズ&ローン(S&L、貯蓄貸付組合)への規制が撤廃され、結果として、預金による危険な投資が認められることとなった。
1984年、キーティングが経営していたアメリカン・コンチネンタル社は、リンカーン・セイビングズ&ローンを5億ドルで買収した。リンカーン・セイビングズ&ローンは、1980年代初期まで、住宅ローンを中心にした実に堅実な投資に徹していた。企業の成長はゆっくりであっても、リスクを回避した営業で、1983年までには数百万ドルの収入を獲得していた。
 そんな、貯蓄貸付組合をキーティングが買収する。買収するや否や、キーティングは、これまで組合運営に携わってきた経営陣を解雇。そして、政府による規制緩和を使って、リスクの高い投資を開始した。
この危険な投資に積極介入することで、リンカーン・セイビングズ&ローンは、4年間で資産を5倍にまで伸ばしたのだ。リンカーンの主な投資は、土地買収、資産を担保にした不動産投資、そして高利回り投資不適格債券の買収などだった。

   
連邦政府が恐れたこと

 こうした動きが顕著になるにつれ、連邦政府は、その危険性に懸念をいだくようになった。1985年初頭、連邦住宅貸付理事会は、このままリンカーンを放置しておけば、近い将来破綻し、その結果として政府の保険積立金が大きな被害を被ることになりかねないと表明。翌年1986年に当理事会は、調査を開始した。
 貯蓄組合は、組合資産の10%を超える直接投資ができないように法律で定められている。このルールによって、組合が他の金融機関のオーナーとなることを禁じている。ところが、調査によって、リンカーンがこの法律に違反した投資を行っていることが判明した。しかも、巨額の損失が未申告のままであることもわかった。

   
キーティング・ファイブ

 この動きに対応して、キーティングは、政治家を巻き込んで反撃に転じようとした。1987年、キーティングは、いわゆる、キーティング・ファイブと呼ばれる5名の実力政治家に助けを求めた。この5名は、アラン・クランストン(民主党)、デニス・デコンシーニ(民主党)、ジョン・グレン(民主党)、ジョン・マッケイン(共和党)、ドナルド・リーグル(民主党)といった上院議員達だった。キーティングは、この5名に130万ドルもの政治基金を贈っている。つまり、この5人は、買収されたのだった。
1987年4月、この5名の上院議員は、サンフランシスコの連邦住宅貸付理事会と2回にわたって会合を行い、理事会にリンカーンに対する調査を停止するよう圧迫をかけた。この圧力に屈した当理事会は、1988年5月、リンカーンへの調査をとりあえず停止し、非合法活動への容赦をすることを発表した。後にこれが、大きな政治スキャンダルとなって世間を騒がせることになる。

   
新たな疑惑

 当座の危機を乗り越えたリンカーンだったが、再び、次の疑惑が湧き上がった。リンカーンの親会社、アメリカン・コンチネンタル社の思惑投資などにリンカーンから巨額の資金が費やされていることだった。アメリカン・コンチネンタルは、彼らが行ってきた不動産投資で生じた巨額の損失を早急に埋める必要に迫られていた。そこで、リンカーン・セイビングズ&ローンの支店長達は、顧客に既存の譲渡性定期預金(CD)をやめて、アメリカン・コンチネンタルの高利回り債券を買うよう勧め始めた。堅実な預金からリスクの高い投資への転換は、緊急な資金調達を可能としたが、預金者達は、後で自分たちが詳しい説明をされてなかったことに気がついたようだ。
 1988年12月、連邦住宅貸付理事会は、リンカーンの会計監査を行い、リンカーンの不正業務を明白に証明した。即刻、理事会は、キーティングにリンカーンからアメリカン・コンチネンタルへの資金転送禁止命令を下した。切羽詰まった彼は、再びデコンシーニやクランストンなどの政治家に助けを求めたが、今回は、完璧に無視されてしまった。
 1989年4月、アメリカン・コンチネンタルは、破産。リンカーンは、連邦住宅貸付理事会に差し押さえられた。FBIは、キーティングが作り上げたリゾートホテル、ザ・フェニシアンも差し押さえ、後に他の投資会社に売却した。

   
一貫したキーティングの主張

 こうした不正投資への疑惑が浮上する中、キーティングは、一貫して自己の正当性を主張し続けた。全ては、連邦政府が彼のビジネスに必要以上に介入して来たことの結果であり、一切は成功するはずの投資活動であった、という主張だった。1990年9月、キーティングは、カリフォルニア州から告訴され、刑務所に送られた。1992年4月、カリフォルニア最高裁は、キーティングに最高10年の懲役刑を言い渡した。それに対し、キーティングは無罪を主張し、最高裁に控訴を続けた。
 そして、1996年4月、連邦巡回区控訴裁判所は、キーティングの裁判において裁判官から陪審員に与えられた説示に問題があったとして、キーティングへの有罪判決がひっくり返ったのだ。こうして、同年12月、4年半の刑務所生活を終えて、キーティングは釈放され、自由の身となった。

   
ルーテミラー氏が語る「あの日」

 FBIがリンカーン・セイビングズ&ローンの事務所に入ってきたその日。とうとう事務所内のすべてが押収される時がきた。ルーテミラー氏の仕事は、リンカーンの投資事業とは全く無関係なプール設計事業だが、その関連書類などを没収されては大変なことになる。そこで、彼は、とっさに、プールの設計図など関係書類を腕にかかえ、FBIが入ってくる前にビル外に退去しようと急いだ。ビルのエレベーターに飛び乗り、階下に降りていくと同時に、FBI捜査員達は、もうひとつのエレベーターで上に上がっていった。間一髪でFBIに見つからず、階下に着いた彼を待っていたのは、他のFBI捜査員達だった。何を持ち出そうとしているのかと尋ねられ、彼のがかかえていたプールの設計図をFBIに見せた。すると、それを見たFBIは、これなら良しと、彼は難なく帰宅することができたのである。

   
 

以下が彼とのインタビューのやりとりである。

   
 
キーティングが持っていたスイム・クラブのビジョンを教えてください。
   
 

 キーティングは、常にトップクラスを目指していました。彼は、世界中のトップ競泳メダリスト達の半分は、彼が作るスイム・クラブから輩出しなければならない、と思っていました。とにかく、彼の目標はだれよりも高かったんです。当初は、フェニシアン・スイム・クラブという名前でした。ホテルのフェニシアンと同じロゴを使っていたと思います。とにかく、このスイム・クラブが彼の旗印のようなものです。

   
 
その後、プール建設はどうなったんですか。
   
 

 FBIがリンカーンとアメリカン・コンチネンタルから全てを没収し、プールの建設予定地は、整理信託公社(RTC)の手に渡りました。

[注:この組織は、1989年に設立された連邦政府の機関だ。貯蓄貸付組合が破綻すると通常、預金保険公社が保険で組合の預金者の損失を守ることになっていた。ところが、貯蓄貸付組合が大量に破綻しまい、預金保険公社も破綻してしまった。そこでそれに代わって破綻処理を行う政府機関として、整理信託公社が生まれた。
整理信託公社(RTC)の仕事は、プール建設の敷地を売却処分にある。しかし、売却の相手は、キーティング家と全く無関係の者でなければならなかった。そこで、キーティングの娘婿であるゲリー・ホール・シニアがカリフォルニアのバイヤーを見つけ、そこが敷地を買収した。そして、彼が今度は非営利団体を設立して、プールの運営をすることになった。こうして、プールのオーナーは、キーティングと無関係の会社だが、プール自体を操作するのは、キーティング家の者がするようになった。]

   
 
キーティングはどんな人でしたか?
   
 

 確かに不正投資で逮捕された人間ですが、人物としては、とても魅力がありました。彼が事務所に入ってくると、室内が一挙に明るくなりました。とにかく精力的で、個性が強く、刑務所に入っても、他の囚人達を魅了していたようです。

   
 
何か強く今でも忘れられない思い出がありますか。
   
 

 ザ・フェニシアンが完成した時でした。キーティングは、とにかく全てが一流でなければならない人でした。彼は、ヨーロッパに行って、世界指折りの一流シェフを見つけて採用しました。ホテル内のレストランで働くウエイターもベスト中のベストを選んでいきました。ホテルの運営スタッフは全員、彼が目をつけたトップクラスの人間達でした。
ホテルが完成し、いよいよグランドオープンの直前の日のことでした。ザ・フェニシアンの従業員を一同に集めて彼がスピーチをしました。私は水泳コーチですので、その中で一番端に立っていました。100人以上の従業員全員を前に、キーティングは、感謝の意を表し、その後、一番端の方に立っていた私と数人の水泳コーチを彼の元に招いたのです。そして、彼は、私たちコーチを紹介し、「この人たちを手本として勤勉であって欲しい」と、話したのです。これには、驚きました。彼は、「ここにいる水泳コーチたちは、世界トップの一級のコーチであり、将来、オリンピックに出場する優秀な選手を次々と輩出する人たちです。」と紹介してくれました。

   
 
その後、スイム・クラブはどのようになりましたか?
   
 

 フェニックス・スイム・クラブは、優秀な競泳選手を輩出するようになりました。しかし、クラブ運営はなかなか大変でした。オーナーが変わったり、経営面で多くの困難をひとつひとつ克服していかなければなりませんでした。そして、2002年にブロフィーがこのクラブの敷地を買い取りました。その当時、私はフェニックス・スイム・クラブの会長を務めて、一切のプログラムの責任を負っていました。そして、2008年に全米を経済危機が襲ったのです。この時は、本当に大変でした。敷地の価値も突然落ち込んだのです。

[注:ブロフィー大学予備校(Brophy College Preparatory)
1928年にフェニックスで創立されたカトリック系高校。現在1,200人の男子生徒が学んでいる。ブロフィーは、学業面で高い水準を維持し、スポーツの分野でも優秀な選手を輩出してきた。とりわけ水泳チームは、全米でもトップクラスでオリンピックのメダリストもここから出ている。キーティングの孫、ゲリー・ホール・ジュニアもその卒業生である。
2002年、ブロフィーは、フェニックス・スイム・クラブを160万ドルで買い取り、同校のスポーツ・キャンパスとして使い始めた。]

   
 
昨年、フェニックス・スイム・クラブは移転しましたね。
   
 

 そうです。経済危機が落ち着き始めた2012年、ブロフィーは、フェニックス・スイム・クラブの敷地を住宅ディベロッパーに680万ドルで売却することにしたのです。現在、そこには新しい住宅が30軒建ち並んでいます。敷地を売却したブロフィーは、高校の敷地内に新たなプールを建設しました。そして、パラダイス・バリーにあるフェニックス・カントリー・デー・スクール(Phoenix Country Day School)が新たに建設しました。フェニックス・スイム・クラブは、そのプール施設を使って、プログラムを継続しています。

チャールス・キーティング(シンシナティ大学水泳部のころ、1942年)Photo: courtesy of Swimming World Magazine

 キーティングが情熱をかけて始めたフェニックス・スイム・クラブは、彼が持っていたビジョンの通り、トップレベルの競泳選手を数多く輩出してきた。そこには、一流にどうしてもこだわり、絶対に妥協しなかった彼の熱意とビジョンが込められていた。
 さて、フェニックス・スイム・クラブは、昨年、新たな場所に移転した。移転前の最後の練習が昨年3月30日に行われた。それは、キーティングが作り上げたプールの最終章の日であった。そして、それをまるで見届けるように、翌日3月31日にキーティングは、90年の人生の幕を閉じたのだ。
 新出発をしたフェニックス・スイム・クラブ。これからもトップを目指す若者達が陸続ここに集っては世界に旅立っていくことだろう。

チャールス・キーティング  
(シンシナティ大学水泳部のころ、1942年)
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Courtesy of Swimming World Magazine