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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

El Tour De Tucson

2010年12月号s

健康志向の昨今、家に居て何時間もテレビを観たり、ジャンクフードを食べたり、という不健康な現代人に意識変革を。スポーツを通じて、健康回復と友情拡大へ。こんなチャンスがツーソンで毎年行われているエル・ツール・ド・ツーソンだ。スポーツといっても構えることなく、自転車一台あれば誰でもできる全身運動だ。
経済不況にもかかわらず、昨年を上回る参加者でツーソン市内は際立ってにぎわいを見せた。
今月はこの大イベントの発祥と発展を関係者にインタビューしながら探ってみた。
すると、日本との以外な関係が浮き彫りに、、、。

 
 
El Tour De Tucson

エル・ツアー・デ・ツーソンが英語読み。エル・ツール・ド・ツーソンがフランス語。もともと、ツール・ド・フランス(Le Tour de France)という世界最大の自転車プロロードレースが発端となっているので、日本では、フランス語読みが普通だ。
さて、このエル・ツール・ド・ツーソンは、全米最大規模の自転車ロードレースだ。昨年は、8,200人のライダーが参加したが、今年はそれを上回って約8,600人となった。観衆の数を含めたらツーソンのダウンタウンに約10,000人が集まった勘定になる。ダウンタウンを出発し、109マイルの道のりをソノラ砂漠の自然を背景に走り、そして再びダウンタウンに戻ってフィニッシュする。交通整理に当たる市警も警察官を総動員しての一大ムーブメントだ。

 
イベントの誕生

このイベントの誕生は、さかのぼること28年前になる。従って今年が第28回のロードレースだ。1983年、当時グレーター・アリゾナ自転車協会の会長をしていたリチャード・デバーナーディス氏がツーソン市の周りを一周する自転車ロードレースを始めようと決めた。この記事では、彼を「リチャードさん」と呼ぶことにする。
1982年にアリゾナに引っ越して来た彼は、ツーソンが何と美しい場所であるか感動していた。巨大なサワロ・サボテンと雄大な山々、澄んだ青空、広々とした空間。もちろん、ツーソン中を自らの自転車で乗り回っていた頃だった.第一回のイベントに彼は目標を立てた。参加者数200。そしてチャリティーへの募金4,000ドルだった。彼は、ツーソンにあるアメリカ糖尿病協会が経済的に大変なのを知って、イベントを通して、この団体に寄付をすることにした。そして、イベントは大成功に終わり、参加者数198、募金4,500ドルと満足できる結果となった。参加は2名足りなかったが、募金は500ドル超えることができたのだ。

その後の発展

こうして小さく出発したエル・ツール・ド・ツーソンだが、その後の発展は目覚ましいものだった。翌年の1984年、ロサンゼルスでオリンピックが開催された。このオリンピックの自転車部門でアメリカ勢の活躍が目立ち、国民の自転車への興味が著しく高まった。そして、その効果が見事にツーソンでの自転車ロードレースに現れた。2回目のエル・ツール・ド・ツーソンは、参加者が一気に増え、631人、そして募金は$42,000を達成するまでになった。

リチャード・デバーナーディス氏
 
グレッグ・レモン(Greg LeMond)

その後もアメリカの自転車ブームは続く。とりわけ一人のアメリカ人の自転車プロロードレース選手が一役買うこととなった。それがグレッグ・レモンだ。世界中の自転車ファンの目が彼に惹き付けられた。彼は、1986年、1989年、1990年にツール・ド・フランスで個人総合優勝を達成。また、1983年、1989年に世界選手権を制している。
ツール・ド・フランスと言えば、最も歴史がある世界最大の自転車プロロードレースである。1903年から開催されているので、一世紀以上の歴史がある。毎年7月、23日間の日程で行われる。イタリアのジロ・デ・イタリア、それからスペインのプエルタ・ア・エスパーニャと並んで知名度は世界トップである。ここで優勝するのは、地元のフランス人選手が圧倒的に多いのは当然だが、その他ヨーロッパ勢も伝統的に強い。その中で、アメリカ人として初めて優勝を勝ち取ったのが、グレッグ・レモンだったのだ。このころ、多くのアメリカ人が自転車を買い求め、ヘルメットをかぶって町を走り始めた。こうした自転車ブームは、エル・ツール・ド・ツーソンに追い風となってやってきたのだ。

 
リチャードさんと自転車

リチャードさんは、もともと大学で数学を教える教師だった。1974年からアラスカ大学で教鞭をとっていた。丁度そのころ、彼の友人から勧められて自転車に乗り始めた。これが、彼の自転車との出会いであり、人生の岐路ともなった。1976年、彼は、自転車で北のアラスカから南のメキシコまで走る。人生初の長距離自転車の旅となった。自転車への情熱は若いリチャードさんの心に燃え盛っていた。ついに、1978年には、4年間努めた教員を辞め、自転車で全米を廻り始めた。ワシントン州のシアトルから始まり、アメリカ大陸を横断してメイン州へ。そして、南下してフロリダ州.その後もう一度横断してカリフォルニア州まで、180日の一人旅を果たした。34才の時だ。自転車とバックパックだけの半年だった。
その後、もともと彼はカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)を卒業していた関係で、ロサンゼルスに戻って生活を始めた。そこで一人の日本人と宿命的な出会いをする。

 
岡田達雄氏との出会い

ロサンゼルスに移ったリチャードさんは、UCLAの日本人学生と知り合う。この学生は工学部で博士号を目指していた岡田達雄という青年だった。住居を探していたこの青年がゲストハウスを貸そうとしていたリチャードさんに面会を求めてきた。こうして出会った二人は、まもなく友情を深め、まるで兄弟のようにして付き合うようになる。岡田氏を通して多くの日本人を知るようになったリチャードさんは、日本への興味を深め、日本人の友人がどんどんと増え始めた。

 
レースの前々日に開かれたディナーパーティーで
マイクを持つリチャードさん
 
日本列島の旅

日本が好きになるにつれ、引かれるように日本へ飛んだのは1981年だった。もちろん自転車の旅が目的だった。一方まだアメリカにいた岡田氏は、東京の両親に電話をし、リチャードさんは東京の岡田氏の両親宅に泊ることになった。そして、そこが旅の出発点ともなった。北は北海道、南は九州まで自転車で走った。日本の人々と会った。日本文化に触れた。日本をこよなく愛する様になった。77日間の旅。6,235マイルを走り、その結果はギネスブックの記録に載るほどだった。
この一人旅を終えた彼は、アメリカに戻り、やがて、ツーソンに引っ越してくることになるのだ。

   

岡田達雄氏と

グローバル・スポーツ・アライアンス(GSA)

話は、リチャードさんの親友となった岡田氏に戻る。
岡田氏は、東京理科大学理工学部を卒業後、アメリカに留学し、1979年にカリフォルニア州立大学ロングビーチ校で修士号、1982年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)材料科学・工学博士号を取得。その後、京セラ株式会社に就職し、大規模なスキーリゾートの開発を担当した。その開発現場で見た「知識と行動のギャップ」が現代文明の本質的な問題と気付き、1999年NPO法人、グローバル・スポーツ・アライアンス(GSA)を設立した。それはスポーツ愛好家を啓発し、環境を守り、自然を大切にし、省エネ・省資源をする「エコプレー」の理念を普及しようとしている。そして、「エコフラッグ」という緑色の旗をシンボルに環境への意識変革を目指している。

 

 
ツールド草津

場所は一気に日本の草津に。
群馬県の草津と言えば、すぐ思い出すのは草津温泉だ。下呂温泉、有馬温泉と並んで日本三名泉の一つに揚げられており、自然湧出量は日本一を誇る。この草津の町に春を告げるスポーツイベントがある。それが、ツールド草津だ。毎年4月に道に残っている雪をのけて、山への道をきれいにする。そして、その道を自転車ロードレースで走るというもの。ここに、岡田氏が創立したグローバル・スポーツ・アライアンアスのチーム、「GSA草津」が誕生した。そのきっかけは、地元出身の萩原賢一氏(有限会社賢企画)が草津で行われたイベントで「エコフラッグ」を使ったことで、その後、GSAと草津町との自転車ロードレースを通しての交流が始まった。そして萩原氏が岡田氏を草津町長に紹介した。そして、草津町長がツーソンを訪問することになる。

 
草津とツーソン

006年、第24回エル・ツール・ド・ツーソンに草津町の中澤敬町長が招かれた。とともに、GSA草津を中心とする日本のGSA関係者も参加。また、プロの柿沼章氏がレースに参加し、レースでは7位という素晴らしい成績を出した。
レースの前々日に行われたディナーパーティーで中澤町長は、スピーチをし、草津町を紹介。翌年2007年に行われるツールド草津への参加を呼びかけた。
また、町長は、ツーソンのボブ・ウオークアップ市長を表敬訪問し、自転車などのスポーツを通して健康と環境問題への取り組みをする「グローバル・アライアンス・フォー・ウェルネス」の設立に合意した。
こうして、ツールド草津とエル・ツール・ド・ツーソンは、自転車イベントの姉妹関係となり、毎年ライダーの交流が行われるようになったのである。

 
草津とグレッグ・レモン

グレッグ・レモンがツーソンを訪問したのは、2000年のことだ。エル・ツール・ド・ツーソンでは、毎年誰か一人を選んで顕彰している。2000年はグレッグ・レモンが顕彰の対象となった。その時グレッグ・レモンは、やはりツーソンに来ていた岡田氏と会った。岡田氏はグレッグ・レモンを日本に招待し、後にグレッグ・レモンとその家族は、リチャードさんと一緒に日本を訪れる。その際、岡田氏はグレッグ・レモンを草津の町長に紹介し、友好関係が始まる。そして、2005年にツールド草津にグレッグ・レモンが参加し、その姿を見ようと数多くのファンが草津に押し寄せた。

 
リチャードさんの未来の展望

リチャードさんに未来の展望を聞くと、近い将来エル・ツール・ド・ツーソンの参加者が15,000人にもなり、数多くのチャリティー団体を助けることができるようにしたい、と語る。スポーツを通して人々の健康、環境の保護など社会への貢献にもっと寄与し、いつまでも若々しくありたいとも言う。昨年はすでに140万ドルの募金が寄付できたようだ。一人から始まった小さなイベントが今や世界に知られる大ページェントとなっている。

 
柿沼章(かきぬま・あきら)

今回日本から9名が参加したが、柿沼(左写真)さんだけがプロのライダー。日本では宇都宮ブリッツェンというプロチームのコーチ兼ライダーとして活躍する。今回は、109マイルを4時間33分21秒の成績で9位でゴールインした。