このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。
El Tour De Tucson
2010年12月号s
健康志向の昨今、家に居て何時間もテレビを観たり、ジャンクフードを食べたり、という不健康な現代人に意識変革を。スポーツを通じて、健康回復と友情拡大へ。こんなチャンスがツーソンで毎年行われているエル・ツール・ド・ツーソンだ。スポーツといっても構えることなく、自転車一台あれば誰でもできる全身運動だ。 |
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El Tour De Tucson |
エル・ツアー・デ・ツーソンが英語読み。エル・ツール・ド・ツーソンがフランス語。もともと、ツール・ド・フランス(Le Tour de France)という世界最大の自転車プロロードレースが発端となっているので、日本では、フランス語読みが普通だ。 |
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イベントの誕生 |
このイベントの誕生は、さかのぼること28年前になる。従って今年が第28回のロードレースだ。1983年、当時グレーター・アリゾナ自転車協会の会長をしていたリチャード・デバーナーディス氏がツーソン市の周りを一周する自転車ロードレースを始めようと決めた。この記事では、彼を「リチャードさん」と呼ぶことにする。 |
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その後の発展 |
こうして小さく出発したエル・ツール・ド・ツーソンだが、その後の発展は目覚ましいものだった。翌年の1984年、ロサンゼルスでオリンピックが開催された。このオリンピックの自転車部門でアメリカ勢の活躍が目立ち、国民の自転車への興味が著しく高まった。そして、その効果が見事にツーソンでの自転車ロードレースに現れた。2回目のエル・ツール・ド・ツーソンは、参加者が一気に増え、631人、そして募金は$42,000を達成するまでになった。 |
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グレッグ・レモン(Greg LeMond) |
その後もアメリカの自転車ブームは続く。とりわけ一人のアメリカ人の自転車プロロードレース選手が一役買うこととなった。それがグレッグ・レモンだ。世界中の自転車ファンの目が彼に惹き付けられた。彼は、1986年、1989年、1990年にツール・ド・フランスで個人総合優勝を達成。また、1983年、1989年に世界選手権を制している。 |
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リチャードさんと自転車 |
リチャードさんは、もともと大学で数学を教える教師だった。1974年からアラスカ大学で教鞭をとっていた。丁度そのころ、彼の友人から勧められて自転車に乗り始めた。これが、彼の自転車との出会いであり、人生の岐路ともなった。1976年、彼は、自転車で北のアラスカから南のメキシコまで走る。人生初の長距離自転車の旅となった。自転車への情熱は若いリチャードさんの心に燃え盛っていた。ついに、1978年には、4年間努めた教員を辞め、自転車で全米を廻り始めた。ワシントン州のシアトルから始まり、アメリカ大陸を横断してメイン州へ。そして、南下してフロリダ州.その後もう一度横断してカリフォルニア州まで、180日の一人旅を果たした。34才の時だ。自転車とバックパックだけの半年だった。 |
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岡田達雄氏との出会い |
ロサンゼルスに移ったリチャードさんは、UCLAの日本人学生と知り合う。この学生は工学部で博士号を目指していた岡田達雄という青年だった。住居を探していたこの青年がゲストハウスを貸そうとしていたリチャードさんに面会を求めてきた。こうして出会った二人は、まもなく友情を深め、まるで兄弟のようにして付き合うようになる。岡田氏を通して多くの日本人を知るようになったリチャードさんは、日本への興味を深め、日本人の友人がどんどんと増え始めた。 |
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日本列島の旅 |
日本が好きになるにつれ、引かれるように日本へ飛んだのは1981年だった。もちろん自転車の旅が目的だった。一方まだアメリカにいた岡田氏は、東京の両親に電話をし、リチャードさんは東京の岡田氏の両親宅に泊ることになった。そして、そこが旅の出発点ともなった。北は北海道、南は九州まで自転車で走った。日本の人々と会った。日本文化に触れた。日本をこよなく愛する様になった。77日間の旅。6,235マイルを走り、その結果はギネスブックの記録に載るほどだった。 |
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岡田達雄氏と グローバル・スポーツ・アライアンス(GSA) |
話は、リチャードさんの親友となった岡田氏に戻る。
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ツールド草津 |
場所は一気に日本の草津に。 |
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草津とツーソン |
006年、第24回エル・ツール・ド・ツーソンに草津町の中澤敬町長が招かれた。とともに、GSA草津を中心とする日本のGSA関係者も参加。また、プロの柿沼章氏がレースに参加し、レースでは7位という素晴らしい成績を出した。 |
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草津とグレッグ・レモン |
グレッグ・レモンがツーソンを訪問したのは、2000年のことだ。エル・ツール・ド・ツーソンでは、毎年誰か一人を選んで顕彰している。2000年はグレッグ・レモンが顕彰の対象となった。その時グレッグ・レモンは、やはりツーソンに来ていた岡田氏と会った。岡田氏はグレッグ・レモンを日本に招待し、後にグレッグ・レモンとその家族は、リチャードさんと一緒に日本を訪れる。その際、岡田氏はグレッグ・レモンを草津の町長に紹介し、友好関係が始まる。そして、2005年にツールド草津にグレッグ・レモンが参加し、その姿を見ようと数多くのファンが草津に押し寄せた。 |
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リチャードさんの未来の展望 |
リチャードさんに未来の展望を聞くと、近い将来エル・ツール・ド・ツーソンの参加者が15,000人にもなり、数多くのチャリティー団体を助けることができるようにしたい、と語る。スポーツを通して人々の健康、環境の保護など社会への貢献にもっと寄与し、いつまでも若々しくありたいとも言う。昨年はすでに140万ドルの募金が寄付できたようだ。一人から始まった小さなイベントが今や世界に知られる大ページェントとなっている。 |
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柿沼章(かきぬま・あきら) |
今回日本から9名が参加したが、柿沼(左写真)さんだけがプロのライダー。日本では宇都宮ブリッツェンというプロチームのコーチ兼ライダーとして活躍する。今回は、109マイルを4時間33分21秒の成績で9位でゴールインした。 |