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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

生まれ変わるパパゴ公園

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 第二次世界大戦中は、ドイツ兵の捕虜を収容する地として使われたパパゴ公園。現在では、ユニークな岩山がアリゾナらしい砂漠の自然を保ち、市民の憩いの場ともなってきた。

 この公園にも大規模な再開発案が生れ、今後の成り行きが興味深い。

 今月は、このパパゴ公園を歩いてみよう。

 

パパゴ公園再開発計画

  1.  パパゴ公園は、面積1,200エーカー。その3分の2がフェニックス市内、残りの3分の1がテンピ市内。そして公園のほとんどの境界線がスコッツデール市。という訳で3 市が将来のパパゴ公園のブループリントを作り上げようとしてきた。最近、その案の一部がアリゾナ・リバプリック紙に掲載されたので、ラジオ、テレビなどで話題が持ち上がってきている。


その案とは、、、
1.ナショナル・ガード(州兵)の駐屯基地を他の場所に移動させる。

2.公園入り口を5カ所設置する。

3.砂漠植物園とフェニックス動物園の間にレストラン、ギフトショップなどを設置する。

4.公園内の道路を狭くし、自動車のスピードを規制する。

5. 現存のゴルフ場の質を向上させる。

6.砂漠植物園とフェニックス動物園の間を結ぶモノレールかトロリーバスのような交通機関を設ける。

7.公園内で大規模なイベントが出来るような施設を作る。
8.フェニックス、テンピ、スコッツデール3市が共同で公園管理できる機関を作る。
9.ビジネス・リゾート・ホテルを誘致する。

世界最大規模の彫刻庭園を作り文化促進を図る。


 パパゴ公園はフェニックス・メトロの中心に位置する。フェニックス・メトロの急成長と共にパパゴ公園をそのメトロを代表するアップスケールな公園に、というのがこの開発案の趣旨となっている。
 今後、具体的に資金調達から始まって設計、工事など、現実化まで多くの課題があるが、これからの発展に注目していきたい。


パパゴ公園とドイツ軍兵士捕虜収容所

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第二次世界大戦で捕虜となったドイツ軍の兵士がアメリカの収容所に送られて来た。アリゾナのパパゴ公園にもその収容所が設置された。アリゾナの砂漠の真ん中にあり、文明から離れたこの場所は恰好の収容所となった。


 終戦直前の1944 年には1,700人ものドイツ兵士がこの地に送られた。その中にドイツ潜水艦長ユルゲン・ワッテンベルグがいた。彼は当時43才。パパゴ公園の収容所に入ると、脱走を真剣に考えた。脱走するには地下にトンネルを掘って脱出する以外に方法はない。彼は、トンネルを掘るのに最適な場所を探した。米軍兵の守衛から死角となるトンネルの入り口と出口がなければならない。


 ワッテンベルグが見つけた最適の場に、ドイツ人捕虜達は、バレーボールのコートを作ってくれと米兵の守衛に要求した。守衛はこれを認めて、ドイツ兵達に穴を掘るようにシャベルを提供してしまった。


 これで、毎晩トンネル堀りの作業が密かに行われたのだ。こうして高さ3フィート、長さ178フィートのトンネルが完成した。彼らはこれをバレーボール・トンネルと称した。四角の箱の中に砂漠の灌木を植えたものでカムフラージュし
て出口を隠した。


 クリスマスも近い12月23日の夜、いよいよ脱走が始まった。ワッテンベルグは用意周到にも、メキシコにいる知人に連絡済みで、メキシコまでたどり着いた脱走兵をドイツに送ってもらえるようになっていた。フェニックスを南下して、ソルトリバー、ヒラリバー、コロラド川を使ってメキシコに入る、というのが彼らの計画だった。だから、カヌーまで用意していた。


 ところが、ソルトリバーに着いた脱走兵は愕然とした。彼等の眼前には想像していたような川はなく、数日前に降った雨で出来た、ただの泥沼があるに過ぎなかったからだ。


 この日脱出したドイツ兵は、ワッテンベルグを含めて25名。ある者はメキシコに向かっている途中で米兵に捕まり、ある者は飢えと疲れであきらめて自首した。  

 ドイツ兵の脱走を確認した米軍は蜂の巣を突いたような騒ぎとなった。クリスマスイブの日だが、それどころではない。クリスマス休暇で家に戻っていた米兵が根こそぎかり出されて、調査と追跡が始まった。

 一方、ワッテンベルグは他の2人の潜水艦員と一緒に脱出していた。畑に身を隠してグレープフルーツや芋を食べて飢えを凌いだ。しかしついに1月の末にはその2人の潜水艦員も逮捕されてしまい、ワッテンベルグはたった一人となった。

 そこで、彼は意を決し、フェニックスのダウンタウンに行って仕事を見つけようとする。レストランの皿洗いでも鉄道の坑夫でも何でも良かった。バン・ビューレンの通りを2時間歩き続けた。疲れた彼は小さなモテルで泊ろうと試みるが、どのモテルも空き部屋がなく、ついにホテル・アダムスにたどり着いた。フロントに行って空き部屋を求めたが、やはりここも部屋がなかった。冬のフェニックスはこの時、すでにブームの地だったのだろう。


 あまりにも疲労困憊していた彼は、そのままホテルのロビーのソファーで寝込んでしまった。これを不審に思ったホテルの従業員が警察に通報。これは1月28日午前1時半という記録が残っている。ワッテンベルグは、通報直前に目が覚めて、ホテルを出る。


 彼は、あてもなく歩き始めた。そこでフェニックス市警の警察官とばったり会ってしまった。そこは、3番アベニューとバンビューレンの角だ。警察官はワッテンベルグの身元を尋ねた。もはやこれまで。ついにワッテンベルグは観念した。そこで警察官は彼にタバコを差し出した。タバコに火をつけてもらった彼は、煙を深く吸って、「ゲームは終了し、私は負けたよ」とドイツ語なまりの英語で静かにつぶやいたという。


 ワッテンベルグはパパゴの収容所に戻ると、すぐ病院に送られた。そこで食べた夕食は、ビーフの煮汁、ローストチキン、野菜、そしてアイスクリーム。久々の食事らしい食事を味わうことができた。


 時は下って、1985 年1月5日、パパゴ公園戦争収容協議会が収容所の記念の集いを主催した。これにはフェニックス、テンピ、スコッツデールの市長などが参加した。そして特別賓客として招待された一人が、85才のワッテンベルグだ
った。彼は、そのスピーチの中で、あの日の病院でのディナーがどれほど忘れられないかを語った。


 パパゴ公園が見守った敵味方の人間の劇がここにある。