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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

サウス・マウンテンの魅力

2005年11月号

 サウス・マウンテン公園は、市営公園としては世界最大の規模を誇る。総面積は、16,500エーカー。山の麓から頂上まで道路が舗装されていて、自動車で簡単に登ることができる。

 今月はこの巨大な市営公園をのぞくことにしよう。

 

 
サウス・マウンテンの地理

 サウス・マウンテンの中にはいくつかピークがあり、その頂上は標高1,200 から2,690 フィートの高さだ。フェニックスには、8つの山が市営公園として制定され、保護運営をされている。その中で最も標高が高いのは、キャメルバック・マウンテン(2,704フィート)で、サウス・マウンテンは、それに次ぐ高さとなる。フェニックスのダウンタウンの南側に存在するので、サウス・マウンテンに登れば、ダウンタウンを始め、フェニックスの東西がパノラマのように見下ろすことができる。
 サウス・マウンテンは、地理的に二つの別々な時期に地殻変動が起きて誕生したとされる。まず、山の西側半分は6億年以上前の前カンブリア紀の地層と花崗岩で構成されている。山の東側半分は、もっと若く、第三紀の中期(4,000 万年前ごろ)の混合物が圧倒的に地層を占めている。
 西側では、約2,500万年前に鉱物化が起こり、金や銀の鉱脈が形成された。

   
サウス・マウンテンの過去

 この一帯は、古代先住民、ホホカム族が生活を営んでおり、彼らが岩に刻んだ壁画が今でも残っている。これらの壁画は、500 年から1500 年前の間に刻まれ、フェニックスの変化を見続けてきた。

 その数世紀後、スペイン人の宣教師、マルコス・デ・ニザが1539 年にサウス.マウンテンに来たことが記されている。サウス・マウンテンの東側にヤキ・インディアンの村があったとの記述が残っている。そして、1694 年にアリゾナで活躍した宣教師キノも、やはりサウス・マウンテンに到着している。

 1873年にアメリカ陸軍がサンディエゴからアリゾナに電報用の電線を引くために、サウス・マウンテンを使い、プレスコットまで伸ばした。この電報線の跡は、テレグラフ・ライン・トレイルという名でサウス・マウンテンに残っている。

   
金銀の鉱脈

 前述のようにサウス・マウンテンには金と銀の鉱脈ができていた。19 世紀にもちろんこれを見逃す人はいなかった。1880 年代にはサウス・マウンテンから金が7,000オンス、銀が5,000オンス、その上、銅が28,000オンス採掘された。しかし、鉱脈は小さく、採掘作業は長く続くものではなかた。

   
フェニックス市の所有

 1920年にフェニックス市企画評議会の公園委員会で議長を務めていたジム・ドビンズが、フェニックスの将来の発展にサウス・マウンテンを市で所有し管理する必要性を訴え始めた。この運動は功を奏し、議員を動かした。そして、1924 年6月に連邦議会でサウス・マウンテンをフェニックス市の所有管轄とすることを認める法律が通過。市は、
14,513 エーカーの広大な地に総額$17,000 を連邦政府に支払って獲得した。
 早速、市は前述のチャールス・ホルバートをサウス・マウンテン公園の管理人として採用した。
 フェニックス市は、その後サウス・マウンテン公園の管理と充実を目指すが、何せ足りないの資金。すでに土地購入に大金をはたいてしまった市は、一般市民から資金を募る以外になかった。そこで、フェニックスのキワニス・クラブが一役を買い、テレグラフ・パス・トレイルを建設した。その上、ハード博物館の創立者、ドウァイト・ハードが市に援助をのばし、ハイアログラフィック・キャニオンまでのトレイルを建設した。

   
ニューディール政策とサウス・マウンテン

 大恐慌を乗り越えるためにフランクリン・ルーズベルト大統領が音頭を取った一大経済政策。これをニューディール政策と呼ぶ。1930年に国内の雇用活性化を目指して、
様々な景気復興の企画を作り上げた。その中の一つに、市民保存法人(Civilian Conservation Corps)、別名CCCが誕生した。これは、国内の自然保護や公共リクレーションなどの充実発展を主眼に置いたものだった。この目的で、道路建設、灌漑施設の建設、地表浸食の制御、公園施設の充実など図った。CCC は、200万本もの植樹も行ている。
 1933年、資金のないフェニックス市は、このCCC に着目。CCC がサウス・マウンテン公園の充実に一役買ってもらえるように要請した。この要請は即受諾され、CCC は、サウス・マウンテンに1933年から1940年の間、滞在し、4,000 人の青年が日夜、公園の整備に発展に汗を流した。この間、彼らは25マイルの道路建設、40マイルのトレイル建設、18 軒の建造物、15 のラマダ(ピクニック用の建物)の完成を成し遂げた。
 一方アメリカ公園局は、CCC が建設する道路や建物などのデザインを一手に担った。1933年、アメリカ公園局の建築技師などがサウス・マウンテンに到着。ソノラ砂漠のユニークな自然環境にマッチしたデザインを考え抜いた。

   
通信タワー

 夜になると遠方からでもサウス・マウンテンの頂上に見える赤い光。これは通信タワーの光だ。この通信タワーの始まりは、1930年代初期だ。最初のタワーが出来た当時は、年間1ドルでタワーの使用を賃貸したとの記録が残っている。
 現在ではテレビ局などが多くのタワーを利用している。

   
サウス・マウンテン環境教育センター

 サウス・マウンテンの入り口の左手にある建物がサウス・マウンテン環境教育センターだ。サウス・マウンテンのトレイル、地理、歴史、動植物などが紹介されている。学校のツアーにも利用され、ソノラ砂漠の自然美を子供たちに教える役割も果たしている。
 開館時間は、水曜日から土曜日まで午前8時から午後2時まで。日曜日は正午~午後2時まで。入場無料。