このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。
時代の変遷と闘うヒラリバー・インディアン居留区
2003年8月号
居留区に追い込まれて苦闘を余儀なくさせられてきたアメリカ・インディアン。アリゾナにある21カ所の居留区は、それぞれ伝統の保持のみならず、激動の新時代を生き抜くために様々な知恵を駆使して、闘いを挑んでいる. 居留区内で彼らが抱えている貧困、アルコール依存症、犯罪などの問題の克服には、想像を絶する努力が必要となる。 今月はこの居留区のひとつ、ヒラリバー(Gila River)・インディアンに焦点を当ててみた。 |
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周辺の歴史ホホカム族の遺跡から発掘されたつぼ |
この一帯は、紀元前4世紀頃から、古代先住民のホホカム族が活躍していたことで知られている。ホホカム族の際立った特徴は、その灌漑用水路の建設である。厳しい砂漠環境の中で農業を営んだ彼らは、実にユニークな用水路を作り上げることで何百年も生き延びたのだ。工事で使った彼らの道具は、石と木。まだ鉄など金属を使うことが知られていない時代だ。原始的な道具で土を掘り、どの土砂は、手作りのカゴに入れて運び出した。 そのホホカム族が、1400年頃、突然姿を消した。そして彼らが作った用水路だけが残った。現在のピマ族とパパゴ族は、ホホカム族の子孫であると考古学者は見ている。 16世紀になると、コロラド川沿に住んでいたマリコパ族が、近隣の他部族との衝突を避けるためにヒラリバー周辺に移って来た。のちにピマ族とマリコパ族が共同で他の部族と戦ったこともある。 1694年にスペイン人の宣教師がこの一帯に到着した。彼らは、地元の先住民に麦などの新しい穀物を教え、馬や牛を持ち込んだ。 1854年のガズデン買収契約がメキシコとアメリカとの間で調印され、今度は、この地はアメリカの一部となった。すると、白人がやって来た。ちょうどゴールラッシュが始まり、多くの白人がカリフォルニアを目指していた。彼らの多くは、馬などでヒラリバー一体を横切ってカリフォルニアに向かった。地元のアメリカ・インディアンは、こうした人たちに友好的で食事や水などを与えたり、道案内をしたりして助けた。 |
ヒラリバーの悲劇 |
ヒラリバー(Gila River)は、かつて水を満々と湛える大きな川だった。先住民たちは、この水を使って農業を営み、平和に暮らしていた。水鳥もたくさん集まり、魚も豊富にいた。 ところが、ある時からヒラリバーに水が流れなくなってしまった。それは、米政府がヒラリバーの上流にサンカルロス・ダムを建設したからだ。ヒラリバー居留区の住民は、急遽、水のない砂漠生活を強いられるようになる。 ヒラリバー周辺の自然環境も一変する。水鳥は姿を消し、木々は枯れ、生態系が完璧に破壊されてしまった。 水が流れないヒラリバー |
政府依存の生活 |
これまで、自給自足の生活をしていたヒラリバー居留区の人たちは、食料の確保さえ可能でなくなってしまう。連邦政府は、ダム建設が招いた惨事に気が付いた。そして、ダムを取り除くのではなく、ヒラリバー居留区に食料の提供をした。 ところが、政府が提供する食料は、住民の肥満を招いた。今まで、土地を耕し、魚を釣り、体を動かして働いていた人たちが、働けなくなり、アメリカ人が好む肉や油の多い食料を取るようになると、体の中に異変が生じた。 現在、ピマ族は、世界中でトップクラスの糖尿病率が高い民族となってしまった。また、政府依存の生活は、肉体的な不健康を招くだけでなく、精神的な打撃も与えた。居留区内にはびこるアルコール依存症、高い失業率、低い就学率、頻繁な犯罪、など深刻な社会問題を抱えることになる。 |
蘇生への道 |
こうした苦渋の道を歩んできたヒラリバー居留区の人々も蘇生への道を探り、前に歩み始めた。 まず、経済の活性化だ。居留区内に数カ所の工場用地を開発して経営を始めた。中でもローン・ビュテ・インダストリアル・パークは、アメリカ・インディアンが経営する工業用地でもっとも成功している例となっている。その他、カジノ、レース場、ゴルフ場、ホテル業などの経営も手がけている。 こうした事業収益は、居留区内の警察署や消防署の強化、雇用の推進、腎臓透析センターへの資金援助などに使われている。 次に教育の活性化。インディアンの伝統芸能の教育も含めて、数学、科学、英語の教育を促進。居留区内の小学校、中学校、高校で低い就学率と戦っている。 水の確保。水の利権を巡って長い交渉をしてきたが、ソルトリバー・プロジェクト社と居留区との間で和解が合意し、居留区内に一定の水が送られてくるようになった。 |
ヒラリバーと日本人 |
ヒラリバー居留区は、日本人/日系人にとって忘れることができない場所である。それは、第二次世界大戦中、日本人/日系人の強制収容所がこの居留区にでき、13,000人が収容されたからだ。今でもその収容所跡に記念碑が建てられている。 ヒラリバー・インディアン・センター内の博物館には、この収容所の模様を説明した展示が掲げられている。 |