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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

オーク・クリーク・キャニオンの夏

2003年7月号

 セドナを訪れる観光客は必ずオーク・クリーク・キャニオンに足を伸ばし、その自然を楽しむ。

 とりわけ夏は、釣、キャンプ、ハイキングなどに最高の場所だ。

 今月は、このオーク・クリーク・キャニオンの水のせせらぎを聞きながら、その過去に迫ってみた。

 
行き方

 フェニックスからI-17を北上し、70マイルほど走り、179号線に入る。179号は、セドナ市内につながっており、セドナに入ると、89号線を北上。89号線にそって流れている川がオーク・クリーク。

オーク・クリーク

 オーク・クリークは、地殻変動によってできたモゴヨン・リムの最も西の部分を源流として、南に流れ、バーデ・バレーと呼ばれる盆地を形成してきたバーディ・リバーに合流している。オークの木々が繁殖しているので、オーク・クリークと名付けられた。オーク・クリーク・キャニオンは、このオーク・クリークによって削られてできた谷のことで、セドナの北部を指す。

スライド・ロック州立公園

 セドナの中心街からハイウェイ89号線を約7マイル北上すると、「Slide Rock State Park」の標識が見えて来る。スライド・ロックとは、その名のとおり、表面がつるつるとしている岩を意味し、オーク・クリークの川底の岩を滑って遊べるようになっている。水はゆるやかに流れ、川は浅いので、夏には多くの家族連れが訪れ、水遊びで一日をすごしている。水着とタオルがあれば、何時間でも楽しめる所だ。

ペンドリー家の入植

ペンドリーの家(1927年)

 この地は、もともと、ペンドリー家の自作農場だった。43エーカーの土地にりんごの木を植え、果樹園を営業していた。フランク・ペンドリーがこの地に来たのは1907年。その後、自作農場法にもとづいて、この耕作地を獲得。他の入植者が失敗するなか、彼は自分でユニークな灌漑施設を設け、農場開発に成功。1912年に最初のりんごの果樹園を作り、それ以後、りんごの生産は確実に続いた。

ペンドリーが建てた旅行者用のキャビン(1933年 )
セドナからフラッグスタッフへの険しき道

ペンドリー家が使った水車

 1880年にフラッグスタッフが誕生すると、そこは、セドナ/オーク・キャニオンの農作物のよい出荷先となる。距離的には30マイルしか離れていないのだが、交通に大きな障壁があった。それが、モゴヨン・リムだ。
 オーク・クリークの自作農業者は、山を登りつめた所に空の馬車を置く。そして、馬の背に農作物を入れた袋を乗せ、馬と一緒に歩いて山を登る。登りつめると、そこに予め用意してあった空の馬車が。その馬車に農作物を乗せ、再びオーク・キャニオンの農園まで馬で戻る。そして、また農作物を馬の背に乗せて、山を登る。こうして何回か往復すると、ようやく馬車の中が満載される。そして初めて馬車を馬に繋ぎ、フラッグスタッフへ向かう。この地点からフラッグスタッフまで通常2、3日かかった。
 1902年にココニノ郡が腰を上げ、地元の地主達の資金援助もあって、セドナからフラッグスタッフに続く道が完成した。この道がシュネブリー・ヒル・ロード(Schnebly Hill Road) 。この道を使ってセドナ・フラッグスタッフ間を馬車で2日の距離となった。
 一方、周辺の状況も変わった。オーク・クリークの自然が観光客を引き寄せ始め、オーク・クリーク・キャニオンを通過する道路がどうしても必要となる。こうして1914年には、現在のキャニオン道路が完成。1938年までには完全鋪装が終了した。こうして、オーク・クリーク・キャニオンは観光地として注目を浴び始める。
 こうした状況を見のがすことなく、ペンドリーは、観光客のための宿泊用にキャビンを建設。