アリゾナの東部、アパッチ族の居留区に沿って高山が続く。ホワイト・マウンテンは、単独の山ではなく、山脈だ。英語では、White Mountainsと複数になっている。
夏は、避暑地、冬はスキーなど、年間を通して観光客が絶えない。何万年の間に作り上がった自然の芸術は、アリゾナの大地にしっかりと腰をすえている。
今月はこのホワイト・マウンテンを訪れてみよう。
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行き方(フェニックス~ショーロー)
1.ハイウェイ60号を東に走り、グローブ (Globe)まで。Globeから60号を北東に上り、ショーロー
(Show Low)まで
2.87号を北上し、ペイソン (Payson)まで。ペイソンから260号を東に走り、ショーロー (Show
Low)へ
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ショーロー (Show Low)
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ホワイト・マウンテンの北西の玄関口のような町。標高 6,500フィート。ダウンタウンにはホテルやレストランが次々と並び、観光業が町の主要な収入源となっている。
古代の昔は、モゴヨン族と呼ばれる先住民が農業を営んでいたことがわかっている。その後、アパッチ族がこの地に移ってきた。
白人が移住してきたのは1870年代。二人の白人が100,000エーカーの広さの同じ土地を自分の土地だと言い出した。これが事の始まり。この二人は、マリオン・クラークとクロイデン・クーリー。話し合いの結果の妥協策で、パートナーシップということで土地を共有することになった。
1876年。二人はこの土地を共有している間は、十分な収入が得られないと言いだした。しかし、両者とも譲歩の余地がなく、話し合いは平行線。
ある日、二人がトランプでセブンナップというゲームをしていた。クーニーがもう一点で勝てるという時点で、クラークは、「低い数のカードを出したら、お前の勝ちだ。」と。「勝ち」はゲームだけでなく、土地争いのことだったようだ。
クーニーはクラブの2を出し、勝負あった。こうして、クラークは、土地をクーニーに譲り、クラークのものとなった。「低い数を出す」、つまりShow Lowで決着した土地がこの町の始まりだ。従って、町の名前もShow Lowとなった。 |
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ショーロー・レーク (show Low Lake)
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ショーローの南1マイルに位置する湖。マス、バス、ナマズなどの釣りが
楽しめる。ボートのレンタルもできる。 |
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モゴヨン・リム・オーバールック

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ショーローの南にあり、モゴヨン・リムから見下ろす雄大な森林地帯を眺める展望地点。
モゴヨン・リムは、中生代に起きたアリゾナの大地殻変動によってできた大地の割れ目だ。州の北東部分が隆起を始めたが、南の部分は隆起に付いていけず、大地が割れた。当時生息していた恐竜などの生活に大きな影響を与えたはずだ。
今日、もちろん恐竜は姿を消したが、この割れ目は厳然と残っている。アリゾナの東をセドナからホワイト・マウンテンのニューメキシコ州境まで横に約200マイル走る大地のリム(縁)は、トント・リムとも呼ばれた。モゴヨン・リムは、1700年初頭にニューメキシコ州の州知事としてスペインからの統治をおこなったフローレス・デ・モゴヨンが名前の発祥と言われる。
モゴヨン・リムには、北米特有のポンデロサパインと呼ばれる大きな松の木々が茂り、アメリカでポンデロサパインが最も集中している場所だ。したがっ
て、ここからの木材産出がこの一帯の主要産業となっている。
モゴヨン・リムは、考古学的にも貴重な資料が多く、古代先住民の遺跡が多く見つかっている。ここに住み着いた人達は、アナサジ族とよく似ており、モゴヨン族と呼ばれている。長い間、この地で活躍したモゴヨン族も、14世紀には姿を消してしまった。 |
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パイントップ(Pinetop) |
さらに260号線を東に進むとパイントップの町。キャンプやロッジに泊まる観光客でにぎわう。
1888年にモルモン教徒が入植して始まった町。当時の入植者の一人、デイビッド・ペンドロの名前を取って、初めはこの町をペンドロと呼んだ。彼は、1891年に木工所を作った。
周辺には、ホワイト・マウンテン・トレイルシステムと呼ばれるハイキングコース、ウッドランド・レーク、フレッズ・レークなどがあり、飽くことなく自然を楽しめる。 |
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ホン・ダー(Hon-Dah)

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ホワイト・マウンテン・アパッチ・インディアン居留区の玄関口。彼等が
営業するカジノには、日夜多くの観光客が訪れる。
ホン・ダーとは、アパッチ族の言葉で、「ようこそ」の意。 |
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サンライズ・スキー場

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1970年に完成したアリゾナ最大規模のスキー場。毎年11月末ころからオープンし、20万人のスキー客が訪れる。夏は、リフトで山の頂上近くまで上ることができ、視界が良ければ、フラッグスタッフの北にあるサンフランシスコ・ピークも望むことができる。 |
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ビッグ・レーク (Big Lake)、
クレセント・レーク (Crescent Lake)

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260号線から273号線に入り、サンライズ・スキー場を過ぎてさらに南下すると、大きな湖が2ケ所ある。マスの釣り場として有名。ボートのレンタルもできる。 |
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グリア (Greer)

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260号線から273号線を南に下ると、森と牧場の町、グリアに。リトル・コロラド川の水がここから流れ始めている。グリア・レークでは、ニジマスが釣れる。
1880年代にグリア家がここで牧場を開いたのが町の始まり。この町は、森の
自然の中に人間が溶け込んでいるように見える。標高8,500フィートの高山では、夏の涼風がさわやかだ。
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アルパイン (Alpine) |
180号線を南に進み、山麓を上るとアルパインの町。標高8,000フィート。フリスコ川はこのあたりから始まる。19世紀末は、まさにこの地で、ジェロニ
モ酋長率いるアパッチ族が活躍していた。1880年9月に白人の騎兵隊が要塞を構えた。
ここには明白な四季があり、春は一帯に野草が花を咲かせ、夏は90度まで気温が上がる。秋は、木々が鮮やかに紅葉し、冬はクロスカントリーのスキーができるほど雪が降りしきる。
ヨーロッパのアルプスから名前を取り、1882年にアルパインと命名された。
このアルパインからさらに191号線を南に進み、コロナド・トレイル、ハナガン・メドウと進むと、西部で最も美しい車道風景と言われる一帯をドライブで楽しめる。 |
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スノーフレーク (Snowflake)


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ショーローの北、約30マイルに位置する小さな町。メイン・ストリートを通ると、まるでディズニーランドのメイン・ストリートに入ったようなチャーミングな建物が並んだ町が現れる。
その名はスノーフレークだが、雪は余り降らない。実は、モルモン教徒のアポストル・イラスタス・スノーとウィリアム・フレークが始めた町だ。フレークは、モルモン教の教会を設立してモルモンの理想の町を作る使命を、モルモン教の指導者ブリグハム・ヤングから与えられ、他の200人の教徒達と一緒にこの地に来た。1818年、フレークは、ジェームズ・スチンソンという牧場主から土地を購入。実際は、ユタの牛500頭と土地を交換したようだ。スチンソンは、以前から当地で牧場を営んでいたが、土地を売却後、この地を去る。
牧場を購入したフレークは、彼の二人の妻と子供達、そして他の5家族と一緒に生活を始め、モルモンの宗教生活ができる共同体を出発させた。
スノーは、その3ヶ月後に入植し、スノーフレークの町が誕生。そして6ヶ月の間に20家族が新たに入植した。当時建てられた赤レンガの家々は、一旦姿を消してしまったが、最近再建設されて、昔ながらの町の姿が再現されている。
町の見学サービスを提供するために、スノーフレーク歴史パイオニア・ホーム・ツアーが用意されていて、102軒の家屋を見学できる。次々とビクトリア調、ジョージア調、ギリシャ調、ゴシック調、コロニアル調、バンガロー調など、興味深い家々が眼前に現れる。ツアーガイドは皆、もともとの家の子孫達で、昔風の服装をして案内してくれる。
ツアーの最初の家は、ジョン F. フリーマンの家。1893年に建てられた二階建てホーム。今はスノーフレーク/テイラー商工会議所の事務所だ。次が、フレーク兄弟のアンチック店。そして、赤レンガの二階建てホームがオスマーD.イン・ベッド・アンド・ブレックファースト。ウィリアム・フレークの息、オスマー・フレークが始めたB&B。
スノーフレークの町並みは、ブリグハム・ヤングが抱いた天国の町の構想に基づいている。教会を囲んで広々とした通りが碁盤の目のように敷かれている。標高5,600フィートで南にホワイト・マウンテン、西にモゴヨン・リムが位置し、気候も年間を通して温暖ですごしやすい。
町最大のイベントは、7月24日のパイオニア・デー。パレード、ロデオ、工芸品展示など、町をあげて賑やかに行われる。 |
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アリゾナ最大の製紙工場 |
スノーフレークより15マイル西にアリゾナ最大の製紙工場がある。その名をサウスウェスト・フォレスト・インダストリーズ。年間、7万5千トンの新聞紙、6万5千トンの包装紙を生産している。パルプを生産するには、木材と水が豊富になければならない。ところが、この周辺には川もなければ、森林もない。
木材は、ホワイト・マウンテンから運ばれたり、近くの木工所で出る木の破片などがここまで来る。さて、水はと言えば、750フィート地下からポンプで水を引き上げ、毎日800万ガーロンの水が使われている。
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