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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

アリゾナが誇る私立大学院、サンダーバード

2003年4月号

通称サンダーバード。正式には、American Graduate Business School of International Management(米国経営大学院)という名。国際ビジネスの教育では、アメリカ屈指の大学院だ。グレンデールに建つキャンパスには、アメリカのみなず、世界からの学生が集い、学び、そしてまた世界中に羽ばたいていく。

   
サンダーバードの概要

 

 1946年に国際ビジネス専門の大学院として出発したサンダーバードは、現在、約1,000人の学生が学び、その実績は、国際的に広く認められている。当校の学生の内6割が海外からの留学生で、世界135カ国から様々な若者が集っている。日本からの留学生は82名。
 

 サンダーバードの卒業生は、就職率がすこぶる良く、インテル、米商務省、アメリカン・エクスプレス、バンク・オブ・アメリカ、モトローラ、IBMなどの米国トップ企業や政府機関に多くの卒業生が就職している。
 また、1993年には、海外はつのキャンパスとして、「サンダーバード・ヨーロッパ」がスイスのジュネーブとフランスとの国境の町に創立された。

 

   
戦争が生んだサンダーバード

 フェニックス一帯は、アメリカ南西部の中心地になりつつあった1940年代。アメリカは、第二次世界大戦でパイロット訓練のために適した場所を必要としていた。そこで、注目されたのがアリゾナだった。乾燥した空気、晴天に恵まれた空、広大な土地。パイロットの訓練には、うってつけのアリゾナに、次々と訓練場が誕生した。
 ファルコン訓練場(後に、メサ・ファルコン空港)、ヒグリー訓練場(後に、ウィリアム空軍基地)、スカイハーバー空港、ルーク訓練場(後に、ルーク空軍基地)、リーッチフィールド訓練場(後に、グッドイヤー空港)。そして、サンダーバード訓練場I(現在の大学院)とサンダーバード訓練場II(後に、スコッツデール空港)が生まれた。
 サンダーバード訓練場Iには、アメリカ兵のみならず、イギリスや台湾からも若い士官が訓練を受けるためにやって来た。

   
終戦とサンダーバード

 戦争が終わると、パイロット訓練場の必要がなくなった。連邦政府は、全米の多くの軍需施設を民間に払い下げていった。
 その時、米軍航空隊の大佐が二人、大きな夢を語り合っていた。フィンリー・ピター・ダンとW. スタウダー・トンプソンは、新しいタイプの学校を創立することを話していた。そして、新しいタイプとは、国際的なビジネスができる有能な人材を育成する教育機関のことだった。
彼らは、資源や技術では秀でたアメリカが、国際的にビジネスを展開する人材が不足していることを指摘した。そこで、この話を教育の経験に富んだバートン・カイル・ヤント中佐に持ちかけたのだ。
 ヤントは、米軍航空隊訓練司令部の司令官で、第二次世界大戦中、200万人以上の兵士を訓練するプログラムを作り上げ、その手腕が広く認められていた。

ヤント
(写真提供:サンダーバード国際経営大学院)
   
学校創立に向かって

 ヤントは、ダンとトンプソンの話を聞き、より詳細な調査をしようと決めた。米国企業のトップクラスを訪問したり、サンダーバード訓練場を視察したりして、学校創立の案を練り上げていた。
 彼の結論は、創立するならば、一流の高水準な教育内容と教官を提供する学校でなければならないという事であった。
 国際的なビジネスを展開する者は、他国の習慣、国民性、思考方法を学び、ビジネスだけでなく、その国の言語を習得し、友人を作ることができるようにならなければならないと、新たな教育理念を作り上げた。

訓練場の格納庫が校舎の一部として、今も使われている。

 

 

   
新学校の誕生

 1946年4月8日にサンダーバードは教育法人として認められ、10月1日の開校に向けて、カリキュラム構成、教職員の配属、教育機器の獲得、教室の設定、学生の募集を始めた。
銀行からのローンもおり、予定通り、10月1日に258人の新入生を迎えて、学校がスタートを切った。
 ヤントは、初代学長として就任。三年後に突然、病でこの世を去った。しかし、彼の教育理念は、その後、世代から世代へと引き継げられて今日に至っている。

ヤントの業績を讃えるヤント・ビルディング