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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

伝説の町、ツームストーン

2002年4月号

 ツームストーンと言えば、あの「OK牧場の決闘」で有名な町だ。かつて銃と酒とカウボーイがあふれていた無法の西部は、今、伝説として語り伝われている。一時期、サンフランシスコより大きい鉱山都市となった町が閉山と共にゴーストタウンに。

 そして今、この町には、過去の西部を再現した街並みに観光客が押し寄せている。

 今月は、このツームストーンを歩いてみよう。

 
   
ツームストーンの歴史

 ツームストーンの町の創始者は、エソ・シーフェリンという男だ。彼は、銀の鉱脈を探してアリゾナの南部を動いていた。1877年にこの地域に来た彼は、地表の色などから、この地に銀の鉱脈があると判断した。これを聞いた他の友人たちは、シーフェリンを小馬鹿にして笑った。そして、彼らはこう言った。「この山でお前が見つけるのは、お前の墓石ぐらいのものだよ」と。それは、当時アパッチ族の襲撃が激しく、シーフェリンも殺されてしまう可能性があると見ていたからだ。彼らが言った言葉の中の「墓石」が英語でツームストーンだ。シーフリンは、その言葉を忘れず、墓石がこの町の正式な名前となった。

  シーフェリンは、採掘作業を開始し、見事に銀の鉱脈を発見する。そして、1879年4月にツームストーン・ミル&マイニング社を設立した。同年12月には、ツームストーンが正式に村として自治体となった。

 人口は急増し、1881年1月31日にはコチーズ郡がツームストーン市を制定した。ちなみに、1879年から1881年のたった2年間で、ツームストーンの人口は、100人から7,000人へと増加したのである。

   
無法地帯のツームストーン

 銀の発掘作業は職が職を呼び、次々と新しい人間がツームストーンに入って来た。まさにブームタウンとなり、活気が漲っていた。その一方、銃声と喧嘩が絶え間なく、保安官の治安維持の役目は大きかった。ところが、その時のコチーズ郡保安官、ジョニー・ベハンは、犯罪を取り締まることに興味がなく、自分の懐を肥やすことに専念していた。というのも、保安官は町の売上税を集める権利を持っていて、その一部は自分の収入となったからである。そこで、ベハンは、ならず者の取り締まりはそっちのけで、鉱山の収益から出る税金を集めるのに奔走していた。

 その頃、カウボーイズと呼ばれる一組が牧場を襲って牛や馬を盗み、ツームストーンで盗んだ物を売って利益を作っていた。ベハンは、どちらかと言うと、このカウボーイ組に同調的だった。

   
法と秩序の確立へ

 

 こうした無秩序の社会に対して、何とかしようと声を上げる人たちが出てきた。それは、鉱山経営者などのビジネスマン達だった。その上、ツームストーンの新聞「ツームストーン・エピタフ」の編集長、ジョーン・クラムが地元の不動産スキャンダルをすっぱ抜き、正義を正した。そのクラムが、ツームストーン市の市長となった。

 そして、1879年、ワイアット・アープがツームストーンに来た。彼は、カンザスで警察官をしていて、「恐れなき法執行官」と呼ばれるほど、無法者の取り締まりのプロだった。ワイアットの兄弟、ジェームスとヴァージルも一緒にツームストーンに到着した。ヴァージルは、連邦保安官の任命を受けており、1881年にツームストーンの警察署長となった。また、翌年にアープ兄弟のモーガンとワレンもツームストーンに移って来た。

   
OK牧場の決闘

 アープ兄弟は法執行者の立場にあり、その存在は、無法者のカウボーイズ組にとって敵であり、その上、ワイアットとベハン郡保安官もライバル関係とあった。

 1881年4月19日、ヴァージルは、市会で法令を通過させて、銃規制を発令した。銃犯罪が余りにも頻繁な町に銃を持ち込まない法令を発表した。これは当時かなり強引なやり方だった。

 1881年10月、ついにこの敵対関係が銃撃戦となった。これが、いわゆる「OK牧場の決闘」と呼ばれるものだ。この日、カウボーイズ組が町で銃を持っているという通報が入り、ヴァージアが取り締まりに向かったのが決闘ということになった。

 10月26日、カウボーイズ組は、ビリー・クレイボーン、アイクとビリー・クラントン兄弟、トムとフランク・マクローリー兄弟。アープ組は、バージル、ワイアット、モーガン・アープ兄弟、ドク・ホリデイの4人。

 決闘は、約30秒で30発ほどの銃弾が至近距離で撃ち合いとなった。その結果、カウボーイズ組は、ビリー・クレイボーン(逃走)、アイク・クラントン(逃走)、ビリー・クラウトン(死亡)、トム・マクローリー(死亡)、フランク・マクローリー(死亡)の結果。アープ組は、バージル・アープ(負傷)、ワイアット・アープ(無傷)、モーガン・アープ(負傷)、ドク・ホリデー(負傷)の結果だ。

 決闘後、アープ組は全員殺人罪で起訴されたが、全員無罪となった。その判決を聞いたカウボーズ組は、ヴァージルとモーガンを闇討ちし、ヴァージルは腕を失い、モーガン背中を撃たれては死亡した。それに対し、ワイアット・アープとその自警団がモーガンを殺したと見られるフランク・スティルウェルをツーソンで殺害した。

   
「OK牧場の決闘」の名前

 この決闘は、英語で「OK Corral」のガンファイトとなっている。Corralは牧場ではなく、鶏や家畜を入れるために作った柵の囲いだ。これが、牧場と訳されたのは、1957年にスタージェス監督が作った西部劇映画「Gunfight at the O.K. Corral」を和訳するのに、コラルでは日本人にわかりにくいと言うことで、「牧場」となった。

 実際、ツームストーンを訪れると、その決闘の場所に「O.K. Corral」という看板があるが、牧場ではなく、柵の囲いの小さな場所である。

   
その後のツームストーン

 ワイアット・アープ達がカウボーイズ組を殺した後、コチーズ郡に平和が訪れたかと言うと、そうではなかった。1887年には、テキサスから強硬派のジョーン・スローターという保安官が任命された。スローターは、牛泥棒に布告を発令し、「ここから姿をくらますか、さもなければ、殺されるか」と警告した。スローターは、自分も牧場を持っていたことから、牛泥棒への憎悪は極まっていた。泥棒を捕まえて裁判にかけるより、殺してしまうことを選んだ。

 実際、あの「OK牧場の決闘」の後、逃走したカウボーズ組のアイク・クラントンを執拗に追って、彼がアリゾナの東部の端、クリフトンにいたところを射殺した。

 こうして、血で血を洗う銃撃戦のドラマは、その後も20世紀初頭まで続いた。

   
ツームストーン
「タフ過ぎて死なない町」

 ツームストーンは、20世紀に入って繁栄の道に陰りを落とし始めた。1910年に銀の価格が暴落。1929年に大恐慌。そして二度にわたる大火事、大洪水などが襲い、人口激減に伴い、ゴーストタウンへの道を進んだ。

 しかし、この町は、ツームストーンの伝説を観光化することに成功。古い建物を保存し、観光客の誘致が町の活性化を導いたのだ。今では、年間20万人の観光客が訪れ、かつての無法の西部を満喫している。

 この町は、まさに「タフ過ぎて死なない町」なのである。