このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。
アリゾナの政治・その3
2001年3月号
アリゾナの歴史は極めて浅いが、初期のアリゾナ州に多大な影響を与えた政治家が何人かいる。 今月は、バリー・ゴールドウォーターとカール・ヘイデンを紹介する。両者ともアリゾナ生れ。20世紀中半に最も活躍し、州のみならず、全米に大きなインパクトを与えた。 |
選挙キャンペーン中のバリー・ゴールドウォーター(1975年)写真提供:Arizona Historical Library, Central Arizona Division |
バリー・ゴールウォーター(Barry Goldewater) |
1998年5月29日、バリー・ゴールドウォーターの逝去は、アリゾナ州民の記憶にまだ新しい。 1909年1月1日生まれ。アリゾナはまだ準州(テリトリー)で、州になっていなかった頃だ。ゴールウォター家は、1860年代、ゴルドラッシュの最中にアリゾナに移ってきた。ベリーの両親、バーロンとジョセフィンは、フェニックスで店を営業する傍、市民運動のリーダーでもあった。1929年父の死で、ベリーは、父の店を助け、1937年にゴールウォター(株)の社長に。 彼はその精力的な気質から、一流の写真家/探検家になりたかったようだ。その上、1934年のゴルフトーナメント、フェニックス・オープンでは、アマチュア部門で優勝し、プロのゴルファーになる可能性もあった。 第二次世界大戦が始まると、彼は空軍に入隊し、パイロットとなった。大戦後、キャプテンとしてアリゾナ州空軍国家警備隊を組織化し、1952年まで隊長としての任務についた。 彼の政界入りは、1949年。フェニックス市会議員となり、1952年に任期満了。翌年1953年にアリゾナ選出の上院議員となった。その後、1964年に共和党選出の大統領候補者として選挙に出るまで、上院議員を続けた。 アリゾナは、当時、民主党が強い州であった。しかし、ゴールウォーターは、民主党との違いを明確にしながら、弱かった共和党を再建し、保守派の政治的基盤を作り上げたと言って良い。 1964年の大統領選挙では、当時のジョン F .ケネディー大統領が再選を目指し、共和党選出のゴールウォターが挑戦をすることになった。ところが、1963年11月22日にケネディー大統領がダラスで凶弾に倒れてしまう。そして副大統領だったジョンソンが大統領職を引き継いだ。したがって、1964年の大統領選挙には、ジョンソンとゴールウォーターの対戦となった。結果は、ゴールウォーターの大敗で終わり、彼は、一期中断し、1968年に再び上院議員となり、1968年まで連続4期務めた。 彼が主張する政策は、共和党保守派を先取りし、国防強化、小さな政府、反共路線を主張した。 |
大きな計算違い |
ゴールウォーターは、 |
ゴールドウォーターとケネディー
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共和党捕手のゴールウォーターと民主党リベラルのケネディーとは、その主義主張がまたく異なっていたが、不思議にも、この二人は互いに尊敬し合い、友好関係を保った。1963年は大統領選挙を前に白熱した両者の討論が始まった。もちろんケネディーが暗殺される前である。この討論が両者の政策と主張の違いを明白にしていくが、両者の信頼関係は強かったようだ。ケネディー暗殺事件は、ケネディーだけでなく、ゴールウォーターによっても不幸で悲嘆にくれる惨事であった。 ゴールウォーターの自叙伝によると、こんなエピソードがある。1961年4月に米軍がキューバのビッグス湾に上陸し、キューバを侵攻。ところが、カストロの反撃は、CIAの予想を超えるほど強力で、この作戦は窮地に陥った。この時、ケネディーは急遽、ゴールドウォーターを呼び、彼の意見を求めた。ケネディーは尋ねる。「君ならこのような状況をどうするかね?」ゴールウォーターは「私なら、ありとあらゆる手段を使って侵略作戦を断行します。我々の海軍がすでに当地にあるのだから、後はカストロの空軍さえ壊滅させれば、米軍はキューバに上陸できるはずです」と答えた。ケネディーは、すると、一言。「ところで、君はこのとんでもない役職(大統領職)が欲しくないか?」と。 |
潔癖な個性 |
ゴールウォーターは、極めて保守的な政治姿勢を貫きながら、快活で率直な性格から多くの支持者を作った。まず、生涯、汚職で手を汚すことがなかった。そして言うべきは言い、行うべきは行った。 共和党のミカムがアリゾナ州知事の時期、ミカムの発言が大きな問題となった(1987年)。すると、同じ共和党内からゴールウォーターが真っ先に、「ミカムは辞任すべきだ」と主張し、共和党内部から批判を受ける。すると、ゴールウォーターは「ミカムは、非常に頑固な男だ。ラバに乗ったことがあるが、あの男はラバそっくりだ」と言い、批判に対抗した。 また、同性愛者への差別にも異議を表明し、米軍内の同性愛禁止が広がると、その動きに反対した。「兵士がストレート(同性愛者でないこと)か否かなど問題ではない。兵士は銃がストレート(真直ぐ)に撃てれば、それでいいんだ」と。 1989年、アリゾナの共和党が米国をキリスト教の国家とするという決議宣言を可決すると、ゴールウォーターは、「俺は偏屈者が率いるこの党が好きじゃない」と共和党を批判した。 1992年に出た妊娠中絶を禁止する法案にゴールウォーターが反対意見を表明すると、保守層から「ゴールウォーターはもう保守でない」との批判が上がった。すると、彼は、「バカなことを言うな。本当の保守は、個人の生活に政府が立ち入らないんだ」と反論した。 こうして、米国保守派のアイコンであり、またリバタリアンの立場を打ち立てたのがゴールウォーターだった。 |
アメリカ先住民へ強い関心 |
アリゾナで生まれ、アリゾナで育ったゴールウォーターにとって、アリゾナの自然美は、彼の人生に大きな比重を占めていた。その彼は、アリゾナに深く根を張って生きたきたアメリカ先住民に対し多大な興味を関心を抱き、先住民の文化に魅了されたいた。 若い時からアリゾナの至る所を探検して歩いたゴールウォーターは、遠い昔からこの自然に畏敬を感じてきた先住民に、限りない親近感を持っていたようだ。彼が挑戦した冒険と言えば、まさにジョーン・パウエルが行ったように、ワイオミングのグリーンリバーからコロラド川を下って、グランドキャニオンを抜け、レーク・ミードまでの川下りもやってのけた。 彼は、ホピ族の土地を旅しながら、まるで本当の故郷に帰ってきたような感じを得たと語っている。ホピ族の伝統芸能であるカチナ人形は、彼の大きな収集芸術品となり、彼のコレクション437ものカチナ人形は、1968年にハード博物館に贈与されている。 |
カール・ヘイデン(Carl Hayden)ヘイデンの製粉工場
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カール・ヘイデンの政治家として特筆すべきは、そのキャリアの長さだ。94年の人生の中で67年もの間政界で活躍したのがヘイデンである。 ヘイデンは、1877年、ヘイデンズ・フェリー(テンピ)で生まれた。彼の父、チャールズ・ヘイデンは、テンピの産みの親で、その長男としてカール・ヘイデンが誕生した。 カール・ヘイデンにとってソルトリバーは、極めて大きな影響を与えた存在だった。父親の事業は、川の洪水と干ばつとの果てしなき闘いの連続だった。気まぐれなソルトリバーは、時には枯れた川のとなり、用水路が枯渇してしまう。ある時は、川が氾濫して農地が一瞬の内に泥沼となってしまう。 父親の労苦を肌身で感じて育ったカールは、灌漑と開墾の関係書をよく読むようになっていた。 |
ヘイデンと政治写真提供:Tempe Historical museum |
1896年にヘイデンは、スタンフォード大学に入学した。当時、スタンフォード大学は、5年前に創立されたばかりの新しい大学だった。まもなく、父のチャールズから、テンピに帰って父の事業を引き継ぐように再三の依頼がある。しかし、若いヘイデンは、ビジネスより政治を目指して、良い治水の法律を作ることが夢だった。 ところが、1990年にチャールズが病死してしまった。ヘイデンは、大学を卒業することなく、テンピに戻ってきた。父の事業であった製粉工場、商店、そして農園があった。彼は、まず、商店を売却。そして、製粉工場と農園を会計士と銀行に依頼して、営業を任せた。そして、テンピ市の市会議員に立候補して当選。まず、ここからからの政治活動がスタートしたのだ。カールはまだ23才の青年だった。 ヘイデンの情熱と業績は、周囲の認めるところとなり、1906年にマリコパ郡の保安官に選出された。そして、1911年12月の選挙で、ヘイデンは、民主党選出の下院議員に当選した。 翌年1912年2月にアリゾナは、正式に全米48番目の州隣、アリゾナ州初の議員としてワシント入りした。1926年には上院議員となり、1969年に退職するまで、27代大統領のタフトから36代大統領のジョンソンまで、実に57年間、連邦政府の政界に身を置いた。 |
CAPテンピ・タウン・レイクの橋 |
治水政策に生涯をかけたヘイデン。アリゾナを始めとする西部各州の水源確保が課題だった。これには、連邦政府の資金援助が必要だ。その法案に東部、南部の上院、下院議員が反対をする。また、コロラド川の治水には、ワイオミング、コロラド、ユタ、ネバダ、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアの7州とメキシコの利権が絡み、中々まとまらない。 こうして、途方もないエネルギーと時間を費やして生まれたのがCAP (Central Arizona Project)だ。CAPは、コロラド川の水を7つの州とメキシコで妥当に配分し、ダム建設で治水と電力発電を行い、電力の配分も行おうとするプロジェクトだ。これには、ダム建設に伴う環境破壊も大きな障壁となり、交渉に次ぐ交渉で、1968年9月30日に正式に法律として可決された。実に彼が退職する1年前のことだった。 同年5月6日、政府歳出予算委員会が行われた。室内は、上院議員、報道関係者、アリゾナの代表者であふれていた。ジョンソン大統領が短いスピーチを行なった後、ヘイデンの親友であるリチャード・ラッセル上院議員がヘイデンを紹介。ヘイデンは、ゆっくりと壇上に近づき、スピーチを。 「56年間の議員生活で私が学んだことは、その時代の出来事はその時代の人物が必要だということです。実際、時代が専門家を作るのです。壁を、そして屋根を、などと作っていく時があります。アリゾナの基礎は、高速道路、十分な電力、そして豊富な水であり、こうした基礎はすでに完成しました。さた、新しい建物を建設する時が来ました。そこで、本年の任期をもって、私は公職を離れることに決めました」 ここで一斉にカメラのフラッシュが彼の顔を照らした。ヘイデンの顔は涙でぐしょぐしょになっていた。室内には同じように涙ぐむ顔が並んだ。 こうしてヘイデンは、長い議員生活と長い治水への道に終止符を打ったのだ。ヘイデンは、その後テンピで活発な老後を送った。晩年は、彼の父チャールズ・トランブル・ヘイデンの一代記を執筆し、1972に完成。その直後、同年1月25日に逝去した。 告別式には、バリー・ゴールウォターが弔辞を述べた。彼は、ゴールウォーターと対照的に「静かな上院議員」と呼ばれた。彼は、辛辣に他を非難することなく、淡々と仕事をした。また、同僚は彼を「ワーク・ホース(働く馬)」とも呼んだ。今のアリゾナの大発展は、ヘイデンの多大なる功績に負う。 |