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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

キャニオン・デ・シェイの不思議

1999年9月号

 

 アメリカ・インディアンのナバホ族にとっては、聖なる地。そして先祖代々から彼らが生きてきた生活の地。それがチンリ・ワッシュと呼ばれる川が作り上げた渓谷である。

 今月は、この峡谷、キャニオン・デ・シェイを訪問してみよう。

 

 アリゾナの北部とニューメキシコとの州境は、白亜紀(1億3500万年から7000万年前)の末期に大規模な地殻変動が起き、幅80メートル、長さ160メートルの岩が盛り上がり始め、傾斜を作った。そして、現在のキャニオン・デ・シェイの北側にあるチャスカ山脈から緩やかな傾斜をつたって川が流れ始めた。この川が大地を少しずつ削り、川の両岸を垂直の壁のような形にしていった。これが現在のキャニオン・デ・シェイを形作った。今でも、この川は壁を削って流れて続けている。

 また、壁の表面がピカピカ光る程滑らかになっている。これも、何千年と言う長い時間を費やして自然が作り上げた芸術品なのだ。何が起きたかと言うと、雨水がその役目を果たしたことがわかっている。雨が降ルト、雨水が岩壁に当たる。その水が岩の中にある金属成分を酸化させる。酸化物は岩の中に溜まっているが、雨水がそれを表面に押し出していく。すると、表面に出た酸化物は、乾燥して岩壁の表面で固まる。こうした現象を「砂漠のニス」と呼ぶ。青色や黒色の表面は、マンガンが酸化したもので、赤色は、鉄分が酸化したものである。風も大きな役目を果たしている。風が岩壁に当たると、風で吹き上げられた砂塵が壁に衝突する。その砂塵が壁の表面を磨く役割をする。こうして磨かれた壁の表面は、太陽光線を反射したり吸収したりして、見事な芸術を見せてくれるのだ。

アナサジ族の遺跡

 このキャニオン・デ・シェイには、古代先住民の遺跡が各所に見られる。現在はナバホ族の地だが、紀元前から「アナサジ」族と呼ばれる先住民がここに定住していた。

 もともと彼らの先祖は、1万2千年以上前の氷河期にアジア大陸から移住してきたと学者は見ている。当時のベーリング海峡は、陸続きとなっていて、シベリアやモンゴル平原などからマンモスなどを追ってやって来たアジア人だったというのが定説である。実際、多くのナバホの赤ちゃんに蒙古斑が見られ、ナバホの顔つきが東洋人によく似ている。

 アナサジ族は、北米の南西部に定住した。アナサジとは、ナバホ語で古代人を意味する。彼らの生活は、遺跡の発掘によって明らかになってきた。残念ながら、スペイン人が北米に入ってきた時に、多くの遺跡が破壊されてしまった。

 アナサジ族は、1300年頃、突然この地から姿を消す。考古学者にとって不可思議な現象で、その原因は明確になっていないが、大旱魃が襲ってきたからではないかという学説もある。

 このキャニオン・デ・シェイは、先住民ナバホ族が生活するナバホ・ネーションの中にある。彼らにとっては、このキャニオンは聖なる地である。

 ナバホ(Navajo)は、民俗学的そして言語学的に、アタパスカ(Athpaskan)種族に属するとされている。アタパスタ族は、カナダ北西部およびアラスカの内陸地方、米国オレゴンからカリフォルニア沿岸地域、アリゾナ、ニューメキシコに住む先住民を総称したものだ。、ナバホ以外にチリカワ、アパッチ、サンカルロスなどの部族がこれに属する。

 「ナバホ」はテワ・プエブロ族の言葉で「枯れ谷の耕作地」と言う意味だ。

 ナバホ・ネーションに車で入ると、車のラジオから彼らのナバホ語の放送が聞こえてくる。ナバホは、チェロキー族に続く北米第2の人口を抱える大種族である。アリゾナ州では最大の種族だ。

ナバホ族が飼育する羊

 

 1500年代にこの地に足を踏み入れたスペイン人の記録によると、ナバホ族は、キャニオン・デ・シェイには住んでいなかった。彼らは、ニューメキシコ北部の山岳地帯に定住していたことがわかる。と同時にニューメキコのリオグランデ川沿には、古代先住民であるアナサジ族の子孫とみられる人々が生活していたようだ。スペイン人は、この人たちを「ペエブロ(村)」と呼んだ。ナバホは、後に、このプエブロから家族制度、宗教、農業などを学んだ。

 ナバホの人たちは、自分たちを「ディネ(Dineh)」と呼ぶ。ディネとは、「人間」とか「人々」の意味だ。当初スペイン人たちは、アパッチ・デ・ナバホと呼んで、他のアパッチ族と区別していた。

 1600年代から、スペイン人は、プエブロやナバホの人たちにキリスト教を広めようとした。広めるというより強要してきた。その上、キリスト教への改宗を進めると同時に、植民地化を行ってきた。当然、先住民たちの反感を買い、敵意を煽った。

 1680年、プエブロは、スペイン人に対して反乱を起こしたが、最終的には武力で鎮圧されてしまった。そして、多くのプエブロ族がナバホ族の村落に逃げてきた。この時、プエブロ族がナバホの村落に持ってきた羊や織物の知識で、ナバホ族は多くことを学んだようだ。

 こうしてナバホ族は人口も増え、繁栄し始める。そして、居住する区域の拡大を目指す。その時に役にたったのは、スペイン人たちがヨーロッパから持ち込んだ馬だった。北米には、もともと馬は存在していなかったのだ。

 馬を戦力にしたナバホは、近隣のウテ族やコマンチ族にとって脅威の存在となった。そこで、こうした部族は、スペイン人と組んでナバホに対抗する。

 当時のナバホは、チャスカ山脈に住んでいたが、1700年代にキャニオン・デ・シェイを見つけた。ここなら水が豊富で農業に適しているし、スペイン人などの外敵から身を守るにも格好の場所だった。こうしてこの地に定住することになった。

 悲劇の闘いが起こった。それは今でも「大虐殺」と呼ばれている。その事件は、1805年の冬に勃発したのだ。スペイン軍中尉、アントニオ・ナロボナが率いる騎馬隊がキャニオン・デ・シェイに向かった。ナバホ撃退が目的である。

 ナバホ族は、キャニオン・デ・シェイの岩が堅固な要塞とナルト信じていた。ところが、スペイン人が使う武器は、弓矢や石ではない。ライフルという強力な武器だった。ナロボニは、この闘いの報告をサンタフェの軍本部にしている。「150人のナバホを殺し、捕虜33人」殺された90人のナバホ兵士のうち84人は、スペイン軍から両耳を切りさって袋に納めた。ナロボニは、あと6人ぶんの耳が見つからず、本部に謝罪している。それはまさに全員抹殺を目指した「大虐殺」であった。

 この虐殺を可能にしたエピソードが残っている。

 ナロボナの軍隊がキャニオン・デ・シェイに向かっているのは、ナバホも知っていた。そこで、ナバホは、岩の中に密かに隠れてスペイン軍を待ち伏せていた。ところが、その隠れ場の存在がスペイン軍に漏れてしまったのだ。スペイン軍は、キャニオンのを登り、ナバホ兵士たちが隠れている場所の後ろから射程距離にあって、ライフルで次々とナバホを撃ち殺していったのだ。

 なぜ、秘密の隠れ場の情報がスペイン軍の知るところとなったのだろうか。それは、酋長から結婚を認められなかったナバホのある青年が腹を立てて、スペイン軍に寝返り、情報を流したことが後でわかった。まさに獅子身中の虫だったのだ。

キャニオン・デ・シェイで工芸品を売るナバホの女性

  ナバホの悲劇はそれだけで終わらなかった。今度はアングロ白人のアメリカ軍だった。

 アメリカ合衆国は、1848年の米墨戦争で勝ち、メキシコからアメリカ南西部の領土を手に入れた。こうして、スペイン人が去り、アングロがやって来たのだ。

 ナバホと連邦政府は、何回も平和協定を結んだが、何回も反故となった。相互不信が重なった。業を煮やした米陸軍は、強硬にナバホを力で抑えようとした。ここで起こったのが、「ロング・ウォーク」と呼ばれる悲劇の行進だった。

 1864年1月、キット・カーソン陸軍大尉とその軍隊がキャニオン・デ・シェイに到着した。食べ物が不足していた冬場のナバホは、簡単に降伏した。悲劇はその時から始まった。降伏したナバホは、キャニオン・デ・シェイからニューメキシコのボスク・レドンドに徒歩で移動を強いられた。数百名がその途中で死亡した。

 ボスク・レドンドに着くと、より厳しい環境が待っていた。痩せた土地、不十分な水、そして、白人が持っていた病原菌に感染し、数千人が病死してしまった。

 ナバホは、4年間、ボスク・レドンドで抑留され、最終的に平和協定が結ばれ、ナバホ・ネーションに戻ることができたのだ。同時に南北戦争が始まり、米軍はナバホへの関心から南軍への戦いへと移ったのだ。

 このロング・ウォーク以後、ナバホとアングロとの武力による対立は影を潜めた。しかし、不信と誤解はいまだに存在し、長い紆余曲折が続いている。

キャニオン・デ・シェイ国立記念物のウェブサイト