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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

モニュメント・バレーの不思議

1999年8月号

 

 ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の「駅馬車」など多くのハリウッド映画で登場したこの場、モニュメント・バレー。広大な空間の中に不思議な恰好をした岩の塔があちこちに点在している。

 場所は、アリゾナ北部とユタ南部の州境にまたがり、フェニックスから車で約6時間。

 今月はこの神秘な世界に焦点を当ててみよう。

 モニュメント・バリーの岩山には、名称の最後にButte(ビュート)やMesa(メサ)という言葉が付いている。Butteとは、切り立った孤峰のこと。中には、300mもの高さで直立しているものもある。Mesaとは、スペイン語でテーブルの意。つまり台形の大型岩を指す。

 この一帯は、地層がペンシルバニア紀と呼ばれる時期(2億7千万年から3億年前)の地面が、上の地表が侵食されることで、現れてきたものだと言われている。

 標高は、約1,500m(5,000フィート)。夏は気温が摂氏21°から32°くらいで、冬が10°以下。時々雪にも覆われる。春には、様々な野花が咲き乱れ、赤い岩山に見事な色合いを添える。

 ペンシルバニア紀の後の二畳紀(2億2千万年から2億7千万年前)に、生成期の古代ロッキー山脈からゆっくりと川が流れ込み、ユタ州やアリゾナ州の北部に沈泥が堆積した。その中に大量に含まれていたのが鉄分だった。

 当時は、濃度の高い酸素が地上に発生しており、鉄分の酸化が急速に進んだ。その結果が赤色や茶褐色の土を生んだ。

 こうして長い時間をかけて堆積した赤土が固く結合して大きな岩のような山を形成したと考えられている。その岩が数千万年の間、絶え間なく吹き続ける風によって風化が進み、こうした神秘的な格好の岩を作り上げてきた。まさに、自然という名の芸術家が築いた一大作品だ。そして、これは、まだ完成品ではなく、今も風化が続いて、これからも姿を少しづつ変えていくことになるのだ。

 モニュメント・バリーの一帯は、西暦1300年以前の古代先住民が遺した遺跡が100ヶ所以上見つかっている。彼らは、考古学者から「アナサジ族」と呼ばれており、この地でサトウキビなどを育てたり、鹿などを狩猟したりして生活をしていたようだ。彼らは、西暦1300年を境に突然、その姿を消している。なぜ、そしてどこへ、など多くの質問に答えが出ていない。

 モニュメント・バリーは、ナバホ族の部族公園で、彼らが管理運営をしている。当公園は、1958年に設立され、部族政府の公園となった。29,816エーカーの広大な敷地である。この地で彼らは、長い間、生活を営んできたのだ。いつ頃彼らがこの地にたどり着いたのかは明らかでない。

 ナバホ族は、独特な文化を持ち、農牧業を営んで、平和で大変誇り高い部族である。

この誇り高い部族に武力で迫り、土地を追いやったり命を奪ったりした過去の歴史がある。19世紀半ばに行われた「ナバホ・キャンペン」によって、おびただしい数のナバホ族の人々が家を奪われ、囚われ、殺され、居留地に追いやられた。今でも語り継がれている「ロング・ウォーク」と言われる強制移動は、惨事を極めた迫害だった。1864年、キット・カーソン陸軍大将が率いた軍隊によるナバホ撃退作戦だった。白人に降参した8,000人ものナバホの人たちが約500キロの距離を徒歩で移動させたのだ。女、子供、老人、病人は次々と命を落としてしまった。

 このモニュメント・バリーには、そんな「ロング・ウォーク」から逃げてきた難民が住み込んだ。

 白人もこの地に入植してきた。1923年、グールディング夫妻がこのモニュメント・バリーに引っ越してきて、ナバホ族と同じように羊を飼い、焦点を開いた。彼らは、ナバホの人々と仲良くなり、この地に根を張る。ナバホの人たちからウールの毛布や工芸品を買い、白人に売った。地元の喧嘩も仲裁した。連邦政府とナバホ族とのパイプ役も果たした。夫婦のナバホ族への愛着と深い理解は、そのままナバホの社会に受け入れられていった。

 1929年に全世界を大恐慌が襲った。ナバホの地にも大きな影響が及ぼされ、深刻な経済打撃が襲いかかった。そこで、グールディングは、一計を案じた。当時、西部劇映画が盛んに作られていた。そこに目をつけたグーディングは、映画監督のジョン・フォードを説得し、西部劇のロケーションに、このモニュメント・バリーを選ぶように決めさせたのだ。そうなれば、地元のナバホの人たちにも大きな社会活性化の波を起こせるし、アリゾナの宣伝にもなる。

 「駅馬車」、「アパッチ砦」「黄色いリボン」「捜索者」など次々とヒット作品がモニュメント・バリーで撮影された。ジョン・ウエインもそのお陰で名優となった訳だ。

 その後、多くの西部劇映画にナバホの人たちが雇われ、スクリーンに登場する。彼らのナバホ語が西部劇で聞かれるようになる。

 グールディングは、ナバホの人々の健康も心配し、病院も建てた。また、彼が開店したトレーディング・ポストは、ただ単なる商店ではなく、ナバホの人たちが集まって様々な語らいをする場ともなった。