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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

続編 アリゾナ在住日系人の足跡

1999年3月号
強制収容所から釈放

 1945 年、 日本の敗戦によって、米国内の日系人を取り巻く以U境は、な速に変化し始めた。1945年9月4日に米国西武防衛管区は、西海岸における日系人の排斥命令を破棄し、翌年、強制収容所の日本人/日系人が釈放される。しかし、彼等を
待っていたのは、他のアメリカ人からの悪質な敵意と住宅同題。日系人はアパートなどへの入居を拒否され、教会や寺院などを仮の宿としなければならなかった。
 1947年に当時のトルーマン大統領は、兵役を拒否して米国に忠誠を示さなかった256人の日系人に恩赦を与えて釈放。翌年トルーマンは、財産を失った日系人に1ドルの損失に対して10セントを賠償金として支払う法案に署名したが、多くの日系人は財産損失を証明する書類を獲得できず、実質的に暗償法案の効は皆無と同然となる。

 
 
日覚ましい二世の活躍

 

 強制収容所から釈放された彼写は、早速、生活の再建にかかった。とりわけ、米国で生まれた二世の活躍が日覚ましい。老いた一世の親の面倒を見ながら、学校や地域に活発な活動を始め、社会に根を張り始めた。「仕力が無い。我慢、我慢。」と静かに耐え続けてきた一世と異なり、アメリカで生まれた二世は、「主張すべきは主張」しようと各地で立ち上がった。

 

 

日系市民協会

 

 また、戦前に地方で創立され始めた日系市民協会が、1930年には、全米組織となり、「全米日系市民協会」として日系人の人権擁護の運動を展開する。戦後、同協会の積極的な運動によって、援助を申し出た米国法曹界の著名人たちがで始める。

   
 
外人土地法の撤廃

 

 1948 年にはカリフォルニア州の外人上地法*は市民を差別待遇するものであるとの合衆国大審院の判決が下り、1956 年に完全に廃棄。それ以後、他州もこれに追随し、外人土地法が憲法違反であるという認識が広まる。米国政府内でも、 日
系人の損害に対し責任を感しる動きが生まれ、全米日系市民協会の幅広い呼びかけに議会が動き始めた。

*外人土地法:1913年にカリフォルニア州で可決された法律。アジア人(フィリピン人を除く)が米国内で土地を購入する権利を拒否したもの。その後、ワシントン、アイダホ、モンタナ、アリゾナ、ニューメキシコ、テキサス、カンザス、ルイジアナ、ミネソタの各州で同様の法律が可決される。

 

 
 
移民法の改正

 1952年ウォルター・マッカレン法が制定され、これまでどんなに長くアメリカに生活をしていても市民権を確保できなかった一世に市民権を取得することが可能となった。

   
日系人の政界進出

 

 1959年にハワイが米国の50番目の州となると、アメリカ初の日系人の上院議員(ダニエル・イノウエ)が1964年には、米国発の日系女性の下院議員(バスティー・ミネタ)が誕生。1974年には、米本土から初の日系議員、ノーマン・ミネタが政界に進出し、日系人の発言権を強める。

   
賠償要求運動の展開

 本格的な賠償要求の運動が1970年から始まった。公民権運動家であった二世のエディソン・ウノが日系アメリカ人のための損害賠償を連邦政府に求める私案を日系市民協会に提出し、満場一致で賛同を得る。
 その後、10年経過して、1980年に当時のカーター大統領が「戦時下の市民隔離収容の調査委員会」を設立する法案に署名し、合衆国政府が賠償に本腰を入れ始まる。この委員会は、9名の実力者から成り、20日間を費やして全米の公聴会で行い、750人以上の被収容者や政府関係者から証言を集め、1万件以上の文書を証拠物件として取得した。
 1983年、当委員会は、戦時期の日系人に対する強制収容は、軍事的なにつ要請に応じて行われたのではなく、人種偏見、戦時下の異常心理、戦時指導者の失敗に基づいたものであったという結論を下した。そして、当委員会は、議会に対して、国家政治に不正義があったことを認め、国が陳謝とともに生存者に一人当たり2万ドルの賠償金を支払う旨の法案を制定することを要求した。
 5年後の1988年、市民自由法が議会を通り、同年8月10日に当時の大統領レーガンによって署名される。そして、同年11月21日に新たな大統領となったブッシュによって損害賠償金を1990年から1993までに期間に支払うことが確認された。

 
いんたびゅー

ジョー・アルマンさん

 1923年にワシントン州エバレットに生まれる。カリフォルニア州ガドク郡で育ち、マドク高校を卒業後、米軍に入隊。1940年から1964年まで米軍に従軍した。防諜部隊(CIC)に所属。モントレーの軍隊語学学校で日本語、韓国語を学んだ。1966年から1979年まで米軍諜報局の文民特別係官、1970年から1983年までアリゾナ州交通省に勤め、退職。現在、日系市民協会アリゾナ支部の会長をと務める。フェニックスに奥さんの俊子さんと二人暮らし。

 

 
戦争中はどこにいましたか?
 米軍に所属し、アラスカのアリューシャン列島やカムチャッカ半島にいました。
   
当時、日系人の強制収容に関して何かご存知でしたか?

全然知りませんでした。丁度、強制収容直前にアラスカに移っていましたから。

 
戦後、そのことを知って、どう思われましたか?

 日系人の方々に対して、大変可愛そうに思いました。彼らは、アメリカ市民であるにも関わらず、このような目に遭ってしまったからです。

 
日本語を軍隊で勉強されたとのことですが、、、

はい。当時は結構流暢に話せました。

 

 
日本に行ったことは?
 1950年に沖縄や東京に行きました。
 
CICの情報員としてですか?
 そうです。
 
奥さんとはいつ?
 神戸で1957年に結婚しました。
 
日系市民協会に入会したのはいつですか?
 1974年です。
 
強制収容所に入れられた日系人への賠償運動で、どのようなことをされたのですか?
 上院議員や有力者に手紙を送って、賠償金の支払いの必要性、人権回復の重要性を訴えました。
   
いつ、強制収容所について知りましたか?
 戦争が終わり、アラスカから帰ってきてから、友人に誘われてツールレーク・キャンプに行ったことがあります。ツールレークは、大変問題が多かった所です。*
   
賠償金の要求運動をしていて、障害が多かったと思いますが、どんなことがありましたか?
 アメリカ人から随分反対されたり、脅迫までされたりしました。
   
例えば?
 地元のラジオ局でこの運動を扱ってもらい、私がインタビューを受けた後など、よく見知らぬ人から電話がかかってきて、「日系人などに同情するな!」などと言われました。まだ、1930年代の排日運動を経験した白人の人たちの中には、戦後になっても、頑なに日本人を嫌う人が多かったのです。また、戦争で日本軍と対戦した経験者の中には、日本人に対する嫌悪感を持っている人もいます。ある日系活動家などは、「殺してやる」などと脅迫をされたりしたものです。
   
白人のアルマンさんが、そこまで困難を承知で、日系人のために活動されたのは、何故ですか?
 私は、ただ日系人の人たちが可愛そうで、国が人権を蹂躙したことに対して、何かをしなければ、と思っただけです。
   
そして、長い闘いに勝利の結末がきましたね。
 はい。日本政府からも私の活動を認めていただき、1995年の11月に勲五等瑞宝章をいただきました。
   
おめでとうございます。また大変ご苦労様でした。
 有難うございます。
   
いま、あのヒラリバー・キャンプに記念碑が建てられていて、毎月のようにそこに行かれているそうですが、、、
 はい。
   
大変なご苦労があると思いますが、、

 ヒラリバー収容所跡の敷地は、アメリカ・インディアンの居留区となっており、彼らの管轄下におかれています。従って、彼らから許可が降りない限り、敷地内には入ることができません。丁度、収容所があった場所は、現在、彼らが牛を放牧したり、オレンジなどのフルーツを栽培しており、できるだけ外部から人が訪れるのを拒否しようとしています。ですから、簡単に訪問できません。

   
アルマンさんは、許可を持っていらっしゃるのですね。

 毎年、許可を申請しますが、その上に訪問の最低24時間前に彼らに通知し、氏名、訪問目的を連絡しなければなりません。

   
どんな作業をしますか?

 ペンキ塗りやゴミ拾いなどをしています。インディアンの人たちが酒を飲んだりするのに格好の場所らしく、いつもビールの空き缶やワインの瓶が散らかっています。また、頻繁に落書きもされます。時々、ライフルで記念碑が撃たれたりしているのも見ます。

   
いつからこの記念碑の補修作業を始められたのですか?

 1991年に日系市民協会の新聞「パシフィック・シチズンズ」にヘレン・ミシマ女史がヒラリバー収容所の体験者に再会を呼びかける記事を掲載しました。そこで、私は、何か手助けできることはないかと彼女に手紙を書きました。そして、1992年に初めて再会のイベントがヒラリバー収容所跡で行われました。その準備のために、ヒラリバーのインディアンの人たちとあって、いろんな交渉をしたのが始まりです。その時に最初に許可をもらいました。その以後、書籍を読んだり、関係者と話したりして、随分多くを学びました。そして第二回目の再開が1995年に可能となり、この時は、1.150名もの人たちが集まってきました。

   
記念碑は一の人でも訪れることができますか。

 ヒラリーバー収容所に収容されていた日系人やその案族は、その証明があれば、無料で入ることができます。それ以外の人は最低100ドルの入場料を払わなければなりません。ただ、ヒラリバー芸術工芸品センター博物館には、当時のキャンプの資料が置いてあり、だれでも立ち寄ることができます。

   
アリゾナにあったもう一つの強制収容所ポストンはどうですか?

 ポストンにも、記念碑が建っています。ここは、バーカー(Parker)のすぐ南にあり、誰でも自由に訪問できます。現在、 サクラメントの日系人が補修などの倒を見ています。

   
当時に比べれば、最近は日本人や日系人へのいやがらせなどが随分少なくなっていると思いますが、どうですか?
 最近は、ほとんど問題ありません。しかし、この社会は相変わらずへイト·クライムと呼ばれる人種的な嫌悪からの犯罪が跡を絶ちません。過去の日系人の経験を無にせず、人権を尊重する社会を作っていかなければなりません。
   
大変貴重なお話を有難うございました。
 
   

正義の証言

リチャード-マツイシさん

両親はハワイ生まれ。1937年にロサンゼルスで生ま
れた日系三世、歯科医。現在グレンデールに奥さんと二人暮らし。

   
 

 4才の時にアリソナ州のボストンキャンプに収密され、3年間過ごす。 子供達にとっては、キャンプ内は友達がいっぱいいて楽しかったと言う。
1965年、アリゾナに。日系市民協会に入り、日本の伝統を継承する運動をしていた。その後、日系人の贈償要求江劇が始まり、彼も積極的に支援。地元のチャンネル3で特集を組んだ時は、インタビューに応じたりした。ラジオ持のインタピューが放送されると.見知ら者から脅迫電話があったり、壁に落書さをされたり、いやがらせを受ける。
 当時最も困難だったことは、事実を知らせることだった。 多のアメリカ人には全く知らされていなかったからだ。その上、アリゾナ選出の上院議員が理解を示さなかったことも大きな障害だった。
闘わなければ、将来同じ様なことが再び起こり得るという憂慮があった。この運動をして, 「国家が問違いを起こしても,その越りを民衆が正した」という歴史を作ることができたと確信している。この歴史を次の世代にも伝えていかなければならないと訴える。
 彼の父親は、「過法は過去」と戦時中の事を活したがらなかったと言う。
多くの日系人の親の世代は、子供に過去の話を伝えていないと残念がる。だから、彼は白分の3人の娘にはレっかりとこの事実を話し、 3人ともその事実を勉強して、学校できちんとレポートを書いた。
 ポストンのキャンプからカリフォルニアに戻ったある日、父親と店に買い物に行った。そこで生まれて初めて人種差別を経験する。白人の店主が「ジャップは出てけ。」と叫び始めた。何も買えなかった。父親に何が起こったのか尋ねても、何も説明してくれない。その後、小学枚でも「ジャップ」とからかわれて、2回大きな取っ粗み合いの喧隊をした。「2回とも勝ったよ。」と笑う。
 今だに人種偏見、ヘイト·クライムなど後を絶たない。教育をして人権の大切さをしっかり後世に伝えていくことが大切だと強調する。

   
日系人のフラワー·ガーテン

ジョージ・キシヤマさん

 戦後、アリゾナの日系人が始めたフラワー・ガーデンは、アリゾナの名物の一つとなっている。最盛期にはベースライン・ロード沿いに見事な花園が続いていた。当時6家族の日系人が経営をしていたが、今は、2家族のみ, 日系人経営者の高齢化、後維者不足、そして南米から定価格で輸入される花製品が、経営の縮小化を余儀なくさせてきた。
現在、 キシヤマ家 (40th St & Basclinc)とワタナベ家(9h Ave. & Baseline)が経営存続。
 キシヤマ氏は、1928年生まれの二世。戦争中は、ロ本にいて日本の高校を出るが、親はポストンのキャンプに収容される。戦後、アメリカに帰ってきて、米軍に入り挑戦動乱で朝鮮半島へ。その後。父親の農業を維ぐ、ワタナベ氏もアリゾナ生まれの二世、戦争中はボストン·キャンプに。これまでの言い尽くせぬ苦労も花の開花の中で癒してきたのだろうか。
 とにかくこの一帯は春の香りで一杯だ。

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