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このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。

フランク・ロイド・ライトとアリゾナ

1999年10月号

 世界的にその名を知られた天才建築家、フランク・ロイド・ライト。彼とアリゾナとは深い縁で結ばれている。また、彼と日本とも大きな関わりがある。

 今月は、フランク・ロイド・ライトを扱ってみた。

フランク・ロイド・ライト(写真提供:Taliesen West)
理想と創造

タリアセン・ウェスト

 ライトは、1867年、ウィスコンシン州リッチランド・センターに生まれた。アメリカの南北戦争が終わって2年後だった。そして、1959年に91歳の生涯を閉じた。

 ライトの建築は、当時のアメリカの建築常識からすると、はるかに革命的で独特な発想から出発している。当時の建物というのは、ヨーロッパの建築理念が主流となっており、主なアメリカの建築家は、ヨーロッパの留学経験者だった。「住宅というのは、厚い壁で外界から遮断して厳しい自然から人間を守るためのもの」というのが建築常識となっていた。

 ウィスコンシンの広大な自然の中で育ったライトには、ヨーロッパに留学するチャンスは到来しなかった。その彼は、住宅を自然の一部として位置付けて、外界と調和のとれた建物を目指した。彼が目標とした住宅コンセプトで、「草原住宅 (Prairie House)」という言葉がある。これは、住宅を草原の大地に這うように建てる発想だ。晩年のライトは、この草原住宅のコンセプトをさらに発展させて、ユーソニアン住宅を設計した。費用が安く生活がしやすい個性的な住宅理念を打ち立てたのだ。

 彼は、こうした自然と調和した建築理念を「有機的建築 (Organic Arcktecture)」と呼んだ。

 
 
ライトの人生、栄光と暗礁、そして蘇生

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ライトの人生は、華やかな成功者の道を一気に登りつめたものではなかった。1893年に設計した「草原住宅」のウィンズロー邸から始まって、彼は、次々とヒット建築を出し、青年期に新鋭建築家として成功した。

 ところが、そんな彼が、1909年に施主の妻チェイニー夫人と不倫の仲に陥り、駆け落ちしてヨーロッパに逃げてしまったのだ。彼は、今まで築き上げた地位と家庭を捨てることになった。

 この不祥事で彼は、顧客のほとんどを失い、米国に戻った後も仕事がない苦境の時期を送ることなった。そこで、彼は、ウィスコンシンにタイアセンを設立し、建築家志望の若い学生を集めて建築を教え、自給自足の生活を送った。

 ところが、この苦境に追い討ちをかけるかのような悲劇が彼を襲った。召使いがチェイニー夫人をはじめ7人の弟子を斧で殺害し、タイエセンに放火したのだ。マスコミは、それ見たことか、とばかりにライトの過ちを書きたてた。

 こうして、彼の建築家としての人生は終局を迎えたかに見えた。しかし、諦めるということを知らない彼は、25年間も低迷の時期を働き続けて、実力を蓄えたのだ。

 そして、19365年にカウフマン邸を設計した。この作品は、世間で広く認められ、ライトは、再び建築界に返り咲いた。

 ライトは、その後、次々と優れた作品を出し、ライトの傑出した才能と不屈の努力を証明することになる。ユーソニアン住宅の発想をジェイコブズ邸として結実。暗黒時代の悲劇が彼にもたらしたものは、晩年の栄光にとって必要不可欠な試練だったのだろう。

   
ライトの都市観

 ライトは、アメリカの大都市が巨大化していくことを憂慮していた。犯罪、人種差、公害、人口過密など、近代都市が抱える諸問題は、都市の建設理念からきていると指摘した。また、超高層オフィスビルなどの技術や機能のみを重視した大都市建設に疑問を持っていた。彼は、人々の生活には十分な生活空間がなければならないと信じていた。そこで、1930年、彼が想像上の理想都市を考案した。

 そのモデルによると、全ての家庭は農作物ができるだけの小さな土地を持つこと。そして独身者には小さなアパートを作り、周辺に、小さなショッピングセンター、小さな工場、小さな学校がある。その周りには自然が共存する、というものだった。

 彼のこの理想都市は、当時のアメリカ社会に大きな問題提起を投げかけ、支持を受けた。

   
フランク・ロイド・ライトと日本

タリアセン・ウェストの一室に展示されている帝国ホテル玄関部分の模型

 

 フランク・ロイド・ライトと日本との関係は、何と言っても帝国ホテルだ。ホテルは、1912に設計開始され、1923年に施工開始した。この時期、ライトは二度のスキャンダルで辛酸を舐めていた。この時、日本の帝国ホテルの支配人、林愛作がタリアセン・イーストにいるライトを訪ねた。そして、林は、ライトにホテルの建築設計を依頼したのだ。林は以前、ニューヨークに住んでいたことがあり、ライトと親交があった。この林の訪問は、ライトにとって天の助けとなった。

 この帝国ホテルは、ライトの独自な哲学を十分に反映しており、日本文化との調和が重視された。このホテルを見て、世界中の旅客が絶賛の声を寄せたという。しかし、ライトの完璧主義から工事費が予算オーバーとなり、総支配人の林は辞任。設計者のライトは、ホテルの落成披露宴を待たずに、1922年米国に帰国している。

 ホテルの建設は引き続き行われ、1923年7月に完成した。そして9月1日に落成記念披露宴が行われる予定になっていた。ところが、まさにその日の午前11時58分にとんでもないことが起きた。それが関東大震災だった。史上最大規模の被害をもたらした大震災は、東京を直撃し、国家機能を麻痺させた。帝国ホテルの周囲は、多くの建物が倒壊したが、ライトが設計したこのホテルだけは、小さな損傷があったものの、ほとんど無傷のまま残ったのだ。帝国ホテルの会長、大倉は、ライトに電報を送った。その電報には、「ホテルは、あなたの天才の記念碑のように無傷で建っている。おめでとう」とあった。ライトは感涙して喜んだという。

 帝国ホテルは、1968年に解体され、その玄関部分が「ライト館」として、愛知県の明治村に移されている。

 ライトと日本の関係は、帝国ホテルだけではない。ライトは、日本建築や日本美術に強い関心を示した。ライトが初めて日本建築に接したのは、1893年だった。この年、シカゴの背館博覧会に日本政府が鳳凰殿を出展した。これを目にしたライトは、深く感銘した。その後、1905年から帝国ホテルを建設していた1922年まで来日を何回も繰り返した。日光など各地を訪問して、浮世絵や日本美術品を集めた。彼は、この時期に集めた浮世絵をタリアセンの壁に埋め込んだりしている。日本の芸術に調和の美を見つけ、彼の理念との共通項を発見したに違いない。

   
フランク・ロイド・ライトとアリゾナ

アリゾナの古代先住民が遺した絵が描かれた岩をライトは集めた。(タリアセン・ウェスト)

 1927年、ライトはアリゾナを初訪問した。彼はアリゾナ・ビルトモア・ホテルの設計を依頼された。ところが、結果的にこのプロジェクトはキャンセルとなった。しかし、翌年、チャンドラー博士(現チャンドラー市の産みの親)からサンマルコス・ホテルの設計を依頼され、再びアリゾナに戻ってきた。そして、彼は、ホテルの近くに仮小屋を建て、アリゾナでの生活を楽しむことになる。

 アリゾナの温暖な冬と自然美に魅せられたライトは、その後、アリゾナで冬の家を建てることにした。1937年、タイアセン・ウェストを建て、冬季の生活及び仕事場を造った。ウィスコンシンのタイアセン・イーストとは全く異なる環境で、アリゾナの砂漠と調和するデザインと資材を駆使して完成させた。そして、一年の半分をウィスコンシン、後の半分をアリゾナで生活することにしたのだ。

 アリゾナが第二の故郷となったライトは、アリゾナ州立大学のガメージ記念講堂も設計している。この講堂は、ライトの死後(1959年)に完成した。

 ライトは、タイアセン・ウェストの設計についてこう述べている。「私は感動した。砂漠の美、乾燥し澄んだ太陽光線に包まれた空気、荒涼とした幾何学的な山々に。我が故郷ウィスコンシンの緑豊かな田園風景とは強烈なコントラストを持って、この地域全体がインスピレーションそのものだった。そして突然、啓示と呼んだら良いようなものが、建物のデザインに現れた。このデザインは、それ自体がいきなり飛び出してきたのだ」と。

   
タリアセン・ウェスト

 マクドウェル・マウンテンの山麓、スコッツデールの北部に600エーカーの土地を購入したライト。1937年から1938年の冬季に最初の建築が開始され、1940年に完成した。その後、彼の死の1959年まで、建物も追加と修復が続けられた。

 中には、オフィス、設計スタジオ、キッチン、食堂、ガーデンルームと呼ばれるリビングルーム、キバ劇場、キャバレイ劇場、音楽パビリオン、美自他センターなどがある。ここでライトは、生活をし、自ら設計をしながら、若い学生に彼の建築哲学と手法を教えたのだ。

 タイアセンとは、ウェールズ語で「輝く額」の意味。タイアセンとは丘の頂上ではなく、額の辺りに建てられている。また、タリアセンは、ウェールズのドルイ教の牧師の名前でもある。この牧師は、イギリス諸島に伝わる宗教を守り、古代からの言い伝えを話し歌った。ライトが自分の中に流れるウェールズの血を大切にしていたことがよくわかる。

 東京生まれ。日本では、一級建築士の資格を持つ。5年前にアメリカに渡り、「フランク・ロイド・ライト建築学校」を卒業。現在、アリゾナ州公認建築士。タリアセン・ウェストのスタッフとして多忙な毎日を送っている。

 フランク・ロイド・ライトの学校に来たのは、「前から興味があった」のと「先輩がこの学校に来ていた」から。建築の中に住め、建築の中に生活できることに喜びを感じる。

 アリゾナは日本と全く違うので、飽きることがなく、「大好き」とのこと。

 将来は、住宅建築の設計を担う仕事をしたいと夢は膨らむ。

土井由美子さん
(1999年10月現在)
フランク・ロイド・ライトの言葉

自由は内から生まれる

より長く生きると、人生はより美しくなる

私は神を信じる。ただ神は自然の中にある

自然を学び、自然を愛し、自然と隣り合って生きる。そうすれば決して失敗しない

自然は神の具現だ。私は毎日、自然に向かって、仕事のインスピレーションを得る

ビルディングは、地球と太陽の子供だ

偉大なる建築家は頭脳によってできるのではなく、開拓された豊かな心によってできる

全ての偉大な建築家は、当然のこととして、偉大な詩人だ。自らの時、日、年を偉大に解釈するからだ

建築家は預言者でなければならない。真実の意味の預言者だ。10年先を見ることができなくて、建築家と称することなかれ

内の空間が建築家の現実だ

宇宙は芸術の息だ

寛容と自由が偉大なる共和制の基盤だ

自由なるアメリカ。先人が作ろうとした民主の国。これは貧富に関係なく個人の自由を意味する。我々が呼ぶ民主主義や民主政府は、ただ人を機械の道具とするか、人を機械と同等にする手段にしかすぎない

ニューヨークは金力と貪欲、そして賃貸用の民族の偉大なる記念碑だ

職業人と商売人の大きな違い。職業人にとって利潤を生むことは付属的なことであり、商売人にとっては最優先のことである。カネは物を買うことができるが限度がある。しかしそれ以上に大切なこと。それは「質」である