アリゾナに来た最初の日本人

 日本人が初めてこのアリゾナに来たのは、いつのことだろうか。僕は、そんな疑問がいつも頭を掠めていました。調べていると、20世紀初頭、農業労働者として日本人がやってきたことがわかりました。それは、重労働、貧困、そして差別待遇の連続を体験する人々でした。

 ある日、かつて、フェニックス日本国名誉総領事を勤めていた故トーマス・カドモトさんと話をしていた時、彼が、面白い情報をくれたんです。カドモトさんは、1917年にフェニックスで生まれた日系二世で、長い間、アリゾナの日系人社会に貢献してきた人です。アリゾナにいる日本人や日系人の情報は、彼が一番多く持っていました。

 その彼が、「多分アリゾナに来た最初の日本人だと思うが」と言って、大貫八郎という日本人のことを話してくれたのです。

 僕は、とても興味深くなり、その人の情報を探ってみました。

 大貫八郎は、アメリカでは、ハチロン・オーニックという名を使っていました。確かに英語っぽい名前です。

 1849年(嘉永2年)に栃木県市鹿沼市で医者の家に生まれた大貫は、自らも医者となることを志し、オランダ語を学びました。江戸時代からオランダ語が西洋を学ぶ窓口だったからでしょう。そして、開成学校で理学を修め、後に、函館に移りました。そこで、西洋人と知り合い、アメリカのことを知るのです。彼は、何としても渡米をしたいとの思いが募り、函館に泊まっていたノルウェー船に乗りこんだのです。まさに若き情熱あふれる青年だったようです。そして水夫として太平洋を渡り、アメリカに着いたのです。多分、一ヶ月以上の船旅だったでしょう。時は、1870年(明治3年)で、上陸した場所はシアトルでした。

 しばらくシアトルに滞在し、その後、一旦日本に帰国しました。多分、英語にも磨きをかけていたはずです。ある時、横浜で、アメリカ海軍の軍人と懇意になり、アメリカに再び渡るチャンスを手にしました。それは、1876年(明治9年)フィラデルフィア万国博覧会され、そこに展示する日本の工芸品を運搬するという話を知ったのです。しかも、その運搬は、アメリカ海軍艦艇が引き受けました。そこで、大貫は、その船に乗り込みました。

 この博覧会は、アメリカ合衆国独立100周年記念を記念して、盛大なイベントになりました。そして博覧会で、大貫は通訳を務めたのです。当時、和英の通訳ができる人は、非常に少なかったはずです。

 彼は、フィラデルフィアでの万博が終わると、日本に帰国するため、サンフランシスコへ陸路の旅に出たのです。

 ところが、何と、彼は、アリゾナに着くや、そこに留まってしまいました。今のように飛行機であっという間に西海岸に移動する訳ではありません。何日もかけての旅には、ホテル代、食費などが嵩み、彼の所持金が底をつき始めたようです。

 当時、アリゾナは、銀の採掘が盛んに行われており、まさにブームの産業でした。そこで、彼は、鉱山の経営者を訪ねて、そこで働き始めたのです。大貫は、すでに実業家としての才能が芽生え始めていたようで、鉱山の荷物運搬業を請け負って、利益を上げました。

 1876年になると、彼は、アリゾナのツームストンに行きます。まさに西部劇の町を闊歩し、再び彼の実業家としての才能が発揮される時が来ました。ツームストーンには、鉱脈発掘者が多く住んでいました。そこで、飲料水が不足していることに目をつけ、井戸を掘って水を確保し、その水を売って莫大な利益を手に入れました。

 その後、1886年、フェニックスで、事業を起こします。フェニックスは、まだまだ小さな町でしたが、成長の兆しが見えており、大貫の事業が再び登場しました。

 彼は、まず、ガス会社を設立し、市内の店舗にガスのパイプ設備を提供。1888年には、電気会社を設立し、市内に電力を供給しました。今のワシントン・ストリートとセントラル・アベニューの角に街灯が初めて灯されたのです。実は、このガス会社と電気会社が、現在のAPS社の始まりなのです。

 大貫は、フェニックスで白人女性と結婚しました。記録によると、この結婚が、アメリカにおける白人と東洋人との間の初の結婚となりました。今では、不思議なことではありませんが、当時、そのような結婚が大きな物議を起こさなかったでしょうか。ともあれ、夫婦の間で、二男二女の四人の子供をもうけました。混血の子供の存在は、フェニックスの人たちの目にどのように映ったのでしょう。記録にはないので、想像するしかありません。娘の一人は、有名はオペラ歌手(大貫春子)となりました。一人の息子は、フィリピンに移住し、太平洋戦争の時に日本軍に囚われたという情報があります。

 さて、地元の有力者となった大貫ですが、1904年に、事業の利権を全てフェニックス市に譲渡し、彼は、シアトルに移り、1905年、東洋銀行を創立。1908年には、大貫商会という貿易会社を立ち上げました。その後、コロラド州デンバーで活躍し、老後は、サンディエゴで暮らしました。そして、1921年に逝去しました。

 彼の死後、フェニックスの発展に貢献した大貫を表彰記念することで、銅像が作られることが提案されました。しかし、時は1930年代の排日の気運が高まるアメリカでしたので、実現されませんでした。

 以上がアメリカ史上初の日本人実業家の話です。

 磨いた語学と受けた教育はもちろん、その上に、彼が持つ根性と熱意が、大貫の人生を成功に導いたのでしょう。アリゾナに深い縁を残している彼は、これからも、APS社の創始者として、忘れ去られることがないと思います。

man standing on stage facing an american flag

忘れてはいけない過去

 僕がイノシタさんと初めて会ったのは、確か1998年に、日本関係のイベントに行った時のことだったと思います。

 日焼けしてたくましい顔に笑顔を絶やさない人で、会ってすぐ好感を持ちました。もう80歳近いと言われて、年を取ったと笑っていました。アリゾナのグレンデール市で長い間農業をしていたとのことで、農作業で鍛えた体には、想像を超える苦闘の歴史があったように感じました。

 そこで、イノシタさんが第二次世界大戦中、米兵として日本に行ったことを知り、彼の人生に興味を持った僕は、色々と尋ねたんです。

 そこで、何か、今まで全く知らされていなかった歴史を、少し垣間見たように思いました。ちょうど月刊「オアシス」を発行して間もなくだった僕は、彼の家に伺って、インタビューしたいと思い、その旨を彼に伝えたのです。すると、「インタビューなんて、大それたことは、、、」なんて、恐縮していましたが、僕が是非とお願いし、実現することになりました。

 イノシタ・マサジ。漢字では井下正次。日系2世のアメリカ人。ご自宅に伺うと奥さんにも会えました。奥さんも日系2世アメリカ人のヒサエさん。

 イノシタさんは、熊本県からアメリカに移住してきたご両親の間に生まれ、カリフォルニア州のフレスノで育ちました。1919年生まれとのこと。

 楽しく育った一家を襲ったのが、強制退去と強制収容という理不尽なアメリカ政府からの処遇だったのです。

 1941年12月7日、日本軍がハワイのパールハーバーを襲撃。この日を境に、日系人は、アメリカ生まれの市民であるにもかかわらず、急遽、敵性外国人というラベルを貼られてしますのです。

 パールハーバー襲撃から2日も経つと、FBIがイノシタ宅に現れ、お父さんが連行されます。翌年4月には、一家が立退を強制され、アリゾナのヒラリバー強制収容所に連れて行かれました。

 収容所に入れられた日系人は、全員、米国への忠誠を試され、書類にそれを明記されることを求められました。中には、忠誠を拒否し、さらに厳しい収容所に連行される人も多く出ました。

 さて、イノシタさんは、忠誠を表明し、さらに米軍への志願をしたのです。当時、米軍は、日本語がわかる兵士を求めていたのでしょう。収容所に入っている若い男性に志願を勧めていました。

 イノシタさんは、自分が志願すれば、収容所に入っている両親や兄弟が、政府から良く見られるのでは、という期待があったと話してくれました。

 ところが、この志願が、イノシタさんを苦境に追いやったのです。周りの一世や帰米という一時的に日本に戻って教育を受けた後、アメリカに戻ってきた二世の人たちから、ひどい非難をされたのです。

 イノシタさんは、家族からも冷たい扱いを受け、お父さんとは難しい関係になってしまったようです。戦争が終わり、除隊してグレンデールで農業をしていた家に戻ると、農業の手伝いもさせてもらわす、一人で家を出て、転々と農家で仕事をしました。「ずいぶん貧乏をしましたよ」と笑う。

 こうした苦渋の時を過ごしながら、アリゾナの日系人社会に根を下ろし、さまざまな分野でボランティアとして活動してきました。学校や教会などに招待されて、当時の収容所の話をし、戦争の悲惨さを訴えたのもイノシタさんでした。

 彼の話を何回か聞くチャンスがありましたが、そこには、戦争への憎悪、平和への希求、そして、国家と国民の在り方などを考える機会を、一般市民に提供していたように思います。

 国家への忠誠がもたらした家族の離散。戦争の正当化と少数民族への偏見。国家のためという大義面分で苦しみを負う一般市民。

 イノシタさんは、奥さんを亡くしてから、一人で生活をしていましたが、会うたびに見せてくれた笑顔は、今でも忘れられません。その後、故人となってからも、イノシタさんが僕に教えてくれた人の生き方を、僕も大事にしていこうと思っています。

 歴史の教科書には、登場しない彼ですが、実は、数えきれないほどのイノシタさんが、このアメリカの国にいて、社会を支えてきたことを、決して忘れてはならないのです。

記念碑を前にスピーチをするイノシタさん(2011年11月6日)

 イノシタさんが収容されたヒラリバーの収容所は、その姿こそ消えてしまっていますが、彼が何回も訪れて清掃をしたヒラリバー収容所跡記念碑は、これからもその歴史を伝え続けていきます。

american flag hanging on wooden fence

学校で教えないアメリカ史、その3

戦争花嫁の悪戦苦闘

 アリゾナは、空軍基地があり、そこには、米兵と結婚した日本人女性がいます。第二次世界大戦で日本が敗北し、アメリカの駐留軍が日本に上陸すると、多くの若き米兵たちが日本人女性と結婚しました。そして、米国に帰国するとき、一緒にアメリカに渡った女性は、「戦争花嫁」と呼ばれました。

 僕は、アリゾナに学生として来たので、こうした女性達のことを知る由もありませんでした。しかし、いろんな出会いがあり、少しずつこうした「戦争花嫁」の女性を知ることになります。

 多くの彼女達は、全く異国で、言語と文化の違いに困惑し、しかも夫の家庭内暴力やアルコール依存症などで、地獄のような生活を経験しています。

 しかも、日本という敵国から来たわけですから、社会からも冷遇を受け、「ジャップ」と呼ばれて軽蔑されること多々でした。中には、離婚して日本に帰る人もいましたが、そのまま、アメリカに残り、子供を育てて家庭を守った人たちもたくさん見ました。

 日本で英語教育を受けたわけではないので、いわゆるブロークン・イングリッシュと言って、何とか通じれば良いという英語で生活をきりもみしていました。

 ただ、僕が感心したのは、多くのこうした女性達は、その厳しい現実で揉まれて、逞しい、ということでした。英語はわからないアメリカ人が悪いのよ、と開き直って、堂々と生きている女性を何人も見ました。

 こうした人たちに焦点を当てた歴史は、学校で学ぶことはありません。でも、これが、現実で、いわゆる無名の女性の悪戦苦闘がアメリカの地にあります。

 こうした女性を母として生まれてきた子供達が、今、社会に根を張り、生きています。アメリカという移民の国。違いがあればこそ、価値が生まれのかも知れません。

a sculpture of a soldier holding a rifle

学校で教えないアメリカ史、その2

ナバホ暗号部隊

 アリゾナでよく見かけるアメリカ先住民の人たち。何となく親しみ深く感じる彼らの顔には、やはりアジア系の血を見ることができる。果てしない遠い昔に、アメリカ大陸にやってきた多くの先祖たちは、モンゴル系の人たちだったようだ。

 その中でも、一番多い部族がナバホ族だということを、知ったのは、僕がアリゾナに来て数年も経った頃だったように思う。しかも、アリゾナ州内に、ナバホ.ネーションという巨大な居留区があるなんて、何も知らなかったのです。

 時々、先住民の伝統工芸や儀式用のダンスなどを見るチャンスがあり、興味を抱きました。何か、日本のアイヌの人たちの伝統工芸に似ているように思い、親しみを感じてきました。

 さて、ある時、日本人の写真家である河野謙児さんを知る機会に巡り会いました。河野さんは、当時、長い間、ナバホ・ネーションに住み、ナバホの人たちの写真を撮り続けていました。そして、写真集が出版されたのです。この写真集は、「NAVAJO CODE TALKERS」というタイトルです。日本語では、「勇士達、ナバホ暗号部隊」。第二次世界大戦中、アメリカ軍が使った暗号にナバホ語を使ったため、日本軍が暗号解読できなかったという歴史的事実があります。

 僕は、全くそのことを知らず、それから、調べ始めて、驚きました。ナバホと日本との奇妙な繋がりが見えてきたからです。

 これも、歴史の授業で教えません。軍事機密だったために、第二次世界大戦が終わってから長い間、アメリカの国内でも知られることがなかったのです。

 僕は、河野さんに誘われて、ナバホ・ネーションの首都であるウィンドーロックという町に行きました。そこで、ナバホ暗号部隊のパレードがあったのです。かつて暗号部隊の兵士だった人たちと、いろんな話をする機会に巡り合うことができました。

 もう一つ、ナバホ族と日本との奇妙な関係を知りました。

 それは、広島と長崎に落とされた原子爆弾のウラニウムが、ナバホ・ネーションから発掘され、ナバホ族の人たちが労働に使われたということです。この労働は、大変危険な放射能を浴びる仕事でしたが、ナバホの人たちには、その説明は皆無で、多くの人たちが癌などでなくなってしまいました。

 ここにも、非情なる人権無視の歴史があります。

photo of a fence with barbed wire

学校で教えないアメリカ史、その1

日系アメリカ人の強制収容

 僕は、アリゾナに来て、いろんな人と知り合いになることができました。その中で、日本関係のイベントで必ず出会う日系人の方々と少しずつ知り合うようになりました。顔は、日本人ですが、アメリカで生まれ育った人たちは、少々、日本から来た日本人の顔と趣が違います。やはり、アメリカ人です。この違いは、食べ物、空気、生活習慣が違うためでしょうか。中には、日本語が堪能の人もいますが、多くは、カタコトの日本語を使って、あとは英語のみという人たちです。

 でも、日本文化に関しては、それを親や祖父母の代から継承していこうと、一生懸命学んできた人が多いので、日本文化のイベントには、積極的に参加されている人たちと会う機会ができました。

 そんな中、僕が全く知らなかった歴史的事実に出会したのです。僕は、アリゾナ州立大学で歴史学を専攻しましたが、近代アメリカ史の中にも、まるでわざと無視してきたのではないかと思うほど、この事実は、多くのアメリカ人に知らされていないことだったのです。それは、第二次世界大戦勃発直後に起きた、日系人、また在米邦人の強制収容だったのです。しかも、ここアリゾナ州には、2か所の大規模な収容所があったのです。

 日本が真珠湾を攻撃し、その日からアメリカは、第二次世界大戦に参戦して、太平洋では、対日の攻撃に入りました。同時に、アメリカ国内では、日系人は、日本のスパイの可能性があるとして、12万人もの人たちが、住む所を追われ、収容所に送られたのです。

 僕は、その事実を知って、そのことにショックを受けただけでなく、このことを知らされてこなかったことにも衝撃を受けました。日本の歴史の授業でも扱っていないことです。

 それから、少しずつ、収容所の体験を知ろうと、インタビューに歩きました。事実を知れば知るほど、連邦政府が行なった非情なる人種差別と迫害に苛立ちを感じました。

 アメリカで生まれたアメリカ市民が、自分の政府から敵視されるのですから、許せない人権侵害の行為です。 その事実を知って、僕が出版していたオアシスに何回か特集として、掲載をしてきました。でも、日系2世、3世、4世の人たちが、今、アメリカ社会で信頼される立派な市民になっている姿を見ると、これは、大きな勝利の証かと思います。