us flags in front of a house

社会福祉は怠け者を作る?

 僕が今の家に引っ越してきた次の日の朝。僕は、ガレージのドアを開けて、バタバタと片付けをしていました。すると、ある白人の男性が寄ってきて、話かけてきたのです。彼は、当時、70代後半。僕の家と道路を挟んだ向かいの家に住んでいる人でした。バートという名で、握手し、近隣の人同士、仲良くしようと話しました。

 彼は、僕がどこから来たのかと尋ねましたので、僕は、フェニックスに長い間住んでいるけど、元々は日本から来たのだと言いました。すると、「おお日本か。俺も日本に行ったことがあるよ」と言うではありませんか。

 彼は、退役軍人。第二次世界大戦で米軍の兵士として、太平洋の戦線へ出兵しました。そして、日本が降伏すると、あのマッカーサー率いる進駐軍の兵士の一人として、日本に行ったのです。

 あまり詳しく知るチャンスがなかったのですが、彼が言うには、日本で日本女性と一緒に暮らしたことがあるようで、一時的にガールフレンドとして付き合っていたようです。でも、この女性と結婚することはありませんでした。よく面倒を見てくれたと、感慨深げに言っていました。僕に「俺は、日本人が好きだ」と言うバートを見て、これは、僕への社交辞令ではなく、あの女性との思い出から来ている発言だろうと思いました。

 こうして、バートとは、頻繁に会うことになりました。彼は、プロの大工で、家も一軒自分で作ることができるほど、木造工事、コンクリート工事、電気、配管などに精通していました。すでに、退職していましたが、僕は彼からいろんなことを学びました。家のことで、わからないことがあると、僕はいつも彼の家のドアをノックして、彼の助けを求めたものです。僕の左隣の家に引っ越してきたネイトという人は、バートの持つ技術や知識に舌を巻いたようで、僕に向かって「俺は、将来、バートみたいになりたい。それが目標だ」とまで言いました。

 祝日になると必ず、彼の家の前にある旗ざおには、星条旗が掲げられていました。国家に忠誠を誓った退役軍人の彼は、曲がったことが嫌いで、清潔で率直に生きようとしていました。そんな彼は、短気な面もあり、自分の意見をはっきり面と向かって言うので、僕は、その度に、「バートはまた始まったな」と言ったものです。

 ある日、僕は、彼の家のキッチンで、コーヒーをご馳走になりながら、いろんな話をしていました。

 そこで、面白い議題になりました。それは、社会福祉の政策を強化すると、人々は怠け者になる、という論調が出てきたのです。彼曰く、私たちは皆、勤勉でなければならない。仕事をして、自分を支え、家族を支えるのが、国民の義務であり、それができなえれば、できるようにすれば良いのだ、と言うのです。それができない人に、社会福祉の援助をするから、人はもっとダメになるのだ、と主張しました。

 それは、僕から見ると、社会的弱者の切り捨てになるのでは、と言うと、彼は、「弱者は強くなれば良いのだ」と言い切ります。

 僕の家の右隣には、ペリーという隣人が住んでいます。彼は、熱狂的な民主党支持者で、選挙のたびに、彼の前庭に、民主党候補者の看板が置かれています。

 ペリーとバートがどうもうまくいっていないと、他の近隣の友が僕に言ってくれました。

 僕は、あのバートの論調とペリーの考えでは、うまくいかなくても当然かなと思いました。アメリカは、二大政党の政治体制なので、こと政治になると、アメリカ人同士が二つに分かれてしまいがちです。

 僕は、バートともペリーとも仲良く付き合ってきましたが、バートの私的見解や、性格はともあれ、お互いに助け合って、信頼し合って生活ができたことを、喜ばしく思っています。

 バートは、90歳を超えると、足腰が弱くなり、車椅子に頼る生活を強いられました。奥さんのベティはすでに亡くなってしまい、一人暮らしの彼でしたが、僕には、「俺は元気だ」と笑顔を見せ続けていましたが、冗談ぽく、「そろそろ俺も終わりかな」とも言うのです。

 それから、何回か、自宅で転んでしまい、入退院を繰り返していましたが、頑固に一人で生活を続けていました。ところが、とうとうバートの彼の娘さんが現れ、バートを強制的に施設に預けたのです。彼は、大変、不服だったようで、施設に入って数ヶ月で亡くなってしまいました。人の面倒は喜んでするが、人から面倒を見られるのが大嫌いな彼は、施設で面倒を見られるのが耐えられなかったのかも知れません。彼が信じていた「社会福祉は怠け者を作る」ということは、「人から面倒を見てもらうことは、自分をダメにする」ということに通じていたのでしょう。

 彼の葬儀に参列しましたが、心からバートに感謝をし、ゆっくり休んでくれるように、位牌に向かって伝えました。

monument valley at sunset

ナバホの精神的混乱

 ある日、北アリゾナに写真を撮りに行く予定にしていると、それを知った友人が、ナバホ・ネーションに住む知人に会ってくれと頼んできました。その知人というのは、州高速道路89号をまっすぐ北に向かって、ペイジに行く途中にあるツーバシティとい小さな町に住んでいるとのことでした。

 僕は了解し、住所をくれるように頼みました。

 そこで、初めて知ったのですが、ナバホ・ネーションの中には、道路の名前も住所の番号もないんです。この人の家は、その行き先を書いた紙に従って訪ねる以外、方法がありません。その行き先というは、ガソリンスタンドが見えたら、左折し、しばらく行くと、大きな松の木があるので、その前を右に行き、黄色い壁の家が見えたら、左折をし、その先にある青い屋根の家が彼の家、というものでした。

 幸いにして、彼の家が見つかり、辿り着きました。

 彼は、40代の独身男性。ナバホ族として、生まれ育ちました。

 彼は、自分が精神的に困惑した状況を、長い間経験してきたと言いました。そこで、どんなことかと尋ねると、このような経緯を話してくれました。

 彼は、小さい頃から、おじいちゃんとおばあちゃんから色んなナバホ伝統の話を聞かされてきました。そして、ナバホが信じてきたものが当たり前と思っていました。あの山は神。この川は神。この木々は神。周囲の自然のあらゆるものに神を見つけ、神聖なものとして崇めていました。

 ところが、近くに教会ができ、そこに行くように言われました。教会では、神は唯一絶対神で、その神以外に神はいないと言うのです。つまり、白人がキリスト教の教えを強要してきたのです。そこで、神は、唯一というように信じていきました。そして、高校卒業と同時に、米軍に志願しました。志願すれば、教育を受けることができます。フェニックスなどの都会に行って、大学に入るには、資金が足りません。

 米軍に入隊すると、今度は、国家への絶対忠誠を教わりました。そして、何年か後に、退役し、再びナバホ・ネーションに戻ってきたのです。

 そこには、小さい頃聞いたナバホ伝統の教えがありました。しかし、彼は、この経緯の中で、精神的な混乱をどう克服したら良いか回答が出ませんでした。彼は、完全にアメリカ人となれず、完全にナバホにもなれないのです。

 そこで、アルコールに手を出し、精神の空白を酒で埋めようとしたのです。

 僕が彼の家に伺った時は、彼は、アルコールから抜け出て、何かを求めていたようです。

 先住民の間には、このような精神的苦渋が慢性的に広がっています。白人たちが来る以前から、この地で生活をしていた先住民が、白人の侵略によって、その伝統思想や伝統宗教、伝統文化を剥ぎ取られてしまった人々です。

people silhouette during sunset

個性が生きるアメリカ

 僕がアリゾナ州立大学を卒業し、念願だったアメリカでの就職を勝ち取った時は、最高に嬉しかったです。僕は、何としても永住権を取得して、ここ、アメリカにいようと思っていましたので、就職先での面接で、そのことを伝えました。会社側は、快く受け入れてくれて、採用がその場で決まり、就職するや否や、移民弁護士を雇ってくれたのです。

 さて、僕のことを気に入ってくれた社長のリチャードさん。そして、その下で働いている社員を一人一人見ながら、僕は、何と個性豊かな人たちだろうと感嘆しました。

 日本でもサラリーマンをした経験がある僕は、日本の会社と比べて、実に一人一人が異なった性格と資質を輝かせていて、時には、皆の前で、意見の違いから大声で放ちながら不合意や不満を表現し合っているのです。それでいて、その数分後は、何もなかったかのように、仕事を一緒にしている彼ら。

 社長のリチャードさんは、エンジニア。コンピュータ関係の会社を立ち上げ、日本の会社と合弁という形で、アリゾナの法人を経営していました。そこで、日本人の社員が必要となり、探していたところ、僕の履歴書を受け取り、面接してくれた人です。こちらでは、上司を役職で呼ぶことなく、ファーストネームで呼び合うのです。これは、僕には驚きでしたが、すぐに慣れました。

 頭の切れは最高でした。口もすごく、次から次へと専門知識やらその応用やら、彼のアイデアが弾丸のように、口から飛び出てきます。その当時から彼は、いつかAIの時代が来ると何度も僕に言っていました。まだ、AIなどニュースにもならない時でしたが、先見の明ありです。

 ところが、個人としては、あまり金銭感覚に優れた面が見受けられず、収入と支出のバランスがよく見えていないようでした。彼は、離婚後、一人で小さなトレーラーハウスに住んでいて、何回もエンコする自動車を修理につぐ修理を繰り返して、かろうじて乗っていました。

 僕の後に入社してきたモハメッドさん。アラブ系で、敬虔なイスラム教徒。その彼もエンジニアとして、入社してきました。

 その後、ハルクさんというトルコ人が入社してきました。彼もイスラム教徒だそうですが、宗教には無関心とのことでした。そして、ニュージーランドから研修生として一人の男性、ジェフが入ってきました。彼とは、年齢が同じだった僕は、よく一緒に食事に行ったりしたものです。ただ、ニュージーランドの英語が、僕は、なかなか理解できず、閉口しました。彼も、日本語訛りの僕の英語がよくわからないようでした。社内で僕と彼とのやりとりを聞いていたアメリカ人の社員が、笑顔で通訳で入ってくれたりしたのを覚えています。多分、僕と彼との会話は、滑稽だったようです。

 こんな会社ですから、それぞれの違いだけを挙げれば、キリが無いほどですが、それぞれの個性を尊重しながら、会社として成り立っていました。

 アメリカには、終身雇用制などありませんから、彼らも何か違う会社や違う仕事が見つかれば、すぐ辞めてどこかに行ってしまうのです。

 実は僕も似たような状況で、永住権取得後、この会社を辞めました。

 このように他の人と同じようにしなければならないという社会規制がない国や団体こそ、僕が大好きな環境なのです。

 人はそれぞれ違っていて当たり前で、その個性を十分に活かしていけば良いのです。その上で、団体として、一緒に仕事ができれば、素晴らしいのではないでしょうか。差異と和合は、共存できるものです。

man in black hoodie using cellphone

人種差別の痛み

 僕がアメリカに来た頃は、すでに第二次世界大戦はとうの昔に終わっていて、日本は、高度経済成長を遂げ、全世界でもアメリカに次ぐ経済大国になっていました。

 日本製の電気製品などがアメリカ市場にも溢れ、日本車が堂々とアメリカの道を走っていて、メード・イン・ジャパンは、良質な製品と、もっぱらの評判でした。

 ですから、日本から来ましたと言っても、僕より前の世代が「ジャップ」と呼ばれて軽蔑されるようなことは、経験しませんでした。

 しかし、黒人への差別は、目にすることがあり、また、ラティノの系やアメリカ・インディアンと呼ばれる先住民の人たちは、辛い思いを長い間強いられて来ましたし、今も、続いているのが現実です。

 鮮明に覚えていることがあります。それは、9.11同時多発テロが起きた時です。アメリカは、明白に攻撃されたのです。その日から、アラブ系アメリカ人への敵視は、どれほど多くの人たちを、差別の痛みに追いやったことでしょうか。しかも、アリゾナで、信じられない事件が起き、ニュースで大々的に報道されました。それは、あるガソリンスタンドで、インド人が銃弾で殺害された事件です。このインド人は、シーク教徒で、頭にターバンを巻き、ひげをたくわえていましたが、イスラム教徒と間違えられて、殺されてしまったのです。何と悲惨な事件で、しかも無知甚だしい犯人の動機だったのです。

 国中は、星条旗を掲げた自動車が何台も走っていて、アメリカという国家に忠誠を持つか持たないかで、敵か味方かが区別されるような、単純な二元論が罷り通ったのです。

 僕はアリゾナにいて、多人種の国の課題をひしひしと感じていました。

 アラブ系アメリカ人への仕打ちは、かつて日系アメリカ人が経験した、あの強制収容の忌まわしい歴史の繰り返しかと思いました。

 最近では、コロナ禍に襲われていた時、コロナ菌は、中国から入ってきたという情報が広がると、まるで中国人だけでなくアジア人も、コロナの責任を持つ危険な人種であるかのように感じた人たちが多くいました。

 サンフランシスコの中華街やら、ニューヨークの街中で、アジア人が暴力を振るわれて病院に送られたという惨事が次々と報道されました。

 ちょうどその頃のある日です。僕は、買い物を終え、店の駐車場で僕の車に乗ろうとしていました。すると、隣に、大きな赤いトラックが止まりました。そして、ある高齢の白人男性が降りてきました。彼は、僕を見るなり、何かを言い始めたのです。彼はマスクをしていたので、よく聞き取れないでいると、彼は、何回も何かを叫んでいるようです。そこで、よく耳を傾けて聞いてみると、何と彼は、僕に向かって、「ゴーバック・トゥ・チャイナ(中国に戻れ)」と言っているではありませんか。僕は、もちろん中国人ではないんですが、彼にとっては、そんなことは、どうでも良く、アジア人は中国に戻れ、と言っているんです。

 僕は、カッときましたが、「黙れ、このジジイ」と叫んで、その場を去りました。

 何と無理解な白人かと呆れてしまいました。

 さて、冷静になって考えてみると、こうしたことの奥には、ある種の恐怖感と危機感が流れているのではないかと思うようになりました。

 僕は、「オアシス」の出版の仕事をしていて、アメリカの人口統計を何回も見たんですが、今世紀の中盤ごろには、白人はいわゆるマイノリティになってしまうことが予想されています。これには、白人の出生率が極めて低い一方、非白人の出生率、特にラティノ系の出生率が非常に高く、このままでいくと、2050年か2060年頃には、白人の人口は、全米の過半数を割ることになります。しかも、白人と他人種との結婚も多くなり、白人だけの人口の割合は、減少を続けているのです。このことへの恐怖を持つ白人層がいることは確かでしょう。さらに、移住の国アメリカは、他国からいろんな人が次々とやってきます。9.11以来、アメリカへの移住を厳しくし、門戸が非常に狭くなっていますが、移住を止めることはできません。キリスト教以外の宗教もアメリカに広がります。

 これまで、白人のキリスト教徒が全米を仕切っていた時代は、すでに昔となりつつあるのです。この流れに不安を感じる人は、少なくないでしょう。実際、リプレイスメント・セオリーなどという馬鹿げた白人至上主義が一部の人たちの間でまかり通っているのです。つまり、白人が非白人に置き換えられるという危機感を煽る離村です。

 アメリカが本当の意味でメルティングポットになり、他人種同士が差別なく生きていくようになるには、まだまだ時間がかかりそうです。しかし、そうならなければ、この国は、一つの国として成り立たないはずです。 僕の周囲には、実に多くの友人がいます。白人、黒人、メキシコ人、日系人、アラブ人、など。差異にこだわる時代を乗り越え、差異に価値を見出す時代の到来を期待しています。

man standing on stage facing an american flag

忘れてはいけない過去

 僕がイノシタさんと初めて会ったのは、確か1998年に、日本関係のイベントに行った時のことだったと思います。

 日焼けしてたくましい顔に笑顔を絶やさない人で、会ってすぐ好感を持ちました。もう80歳近いと言われて、年を取ったと笑っていました。アリゾナのグレンデール市で長い間農業をしていたとのことで、農作業で鍛えた体には、想像を超える苦闘の歴史があったように感じました。

 そこで、イノシタさんが第二次世界大戦中、米兵として日本に行ったことを知り、彼の人生に興味を持った僕は、色々と尋ねたんです。

 そこで、何か、今まで全く知らされていなかった歴史を、少し垣間見たように思いました。ちょうど月刊「オアシス」を発行して間もなくだった僕は、彼の家に伺って、インタビューしたいと思い、その旨を彼に伝えたのです。すると、「インタビューなんて、大それたことは、、、」なんて、恐縮していましたが、僕が是非とお願いし、実現することになりました。

 イノシタ・マサジ。漢字では井下正次。日系2世のアメリカ人。ご自宅に伺うと奥さんにも会えました。奥さんも日系2世アメリカ人のヒサエさん。

 イノシタさんは、熊本県からアメリカに移住してきたご両親の間に生まれ、カリフォルニア州のフレスノで育ちました。1919年生まれとのこと。

 楽しく育った一家を襲ったのが、強制退去と強制収容という理不尽なアメリカ政府からの処遇だったのです。

 1941年12月7日、日本軍がハワイのパールハーバーを襲撃。この日を境に、日系人は、アメリカ生まれの市民であるにもかかわらず、急遽、敵性外国人というラベルを貼られてしますのです。

 パールハーバー襲撃から2日も経つと、FBIがイノシタ宅に現れ、お父さんが連行されます。翌年4月には、一家が立退を強制され、アリゾナのヒラリバー強制収容所に連れて行かれました。

 収容所に入れられた日系人は、全員、米国への忠誠を試され、書類にそれを明記されることを求められました。中には、忠誠を拒否し、さらに厳しい収容所に連行される人も多く出ました。

 さて、イノシタさんは、忠誠を表明し、さらに米軍への志願をしたのです。当時、米軍は、日本語がわかる兵士を求めていたのでしょう。収容所に入っている若い男性に志願を勧めていました。

 イノシタさんは、自分が志願すれば、収容所に入っている両親や兄弟が、政府から良く見られるのでは、という期待があったと話してくれました。

 ところが、この志願が、イノシタさんを苦境に追いやったのです。周りの一世や帰米という一時的に日本に戻って教育を受けた後、アメリカに戻ってきた二世の人たちから、ひどい非難をされたのです。

 イノシタさんは、家族からも冷たい扱いを受け、お父さんとは難しい関係になってしまったようです。戦争が終わり、除隊してグレンデールで農業をしていた家に戻ると、農業の手伝いもさせてもらわす、一人で家を出て、転々と農家で仕事をしました。「ずいぶん貧乏をしましたよ」と笑う。

 こうした苦渋の時を過ごしながら、アリゾナの日系人社会に根を下ろし、さまざまな分野でボランティアとして活動してきました。学校や教会などに招待されて、当時の収容所の話をし、戦争の悲惨さを訴えたのもイノシタさんでした。

 彼の話を何回か聞くチャンスがありましたが、そこには、戦争への憎悪、平和への希求、そして、国家と国民の在り方などを考える機会を、一般市民に提供していたように思います。

 国家への忠誠がもたらした家族の離散。戦争の正当化と少数民族への偏見。国家のためという大義面分で苦しみを負う一般市民。

 イノシタさんは、奥さんを亡くしてから、一人で生活をしていましたが、会うたびに見せてくれた笑顔は、今でも忘れられません。その後、故人となってからも、イノシタさんが僕に教えてくれた人の生き方を、僕も大事にしていこうと思っています。

 歴史の教科書には、登場しない彼ですが、実は、数えきれないほどのイノシタさんが、このアメリカの国にいて、社会を支えてきたことを、決して忘れてはならないのです。

記念碑を前にスピーチをするイノシタさん(2011年11月6日)

 イノシタさんが収容されたヒラリバーの収容所は、その姿こそ消えてしまっていますが、彼が何回も訪れて清掃をしたヒラリバー収容所跡記念碑は、これからもその歴史を伝え続けていきます。

silhouette of palm trees during an afterglow

州都フェニックスってどんな町?その1

人口増加トップの町、フェニックス

アリゾナで最も大きな市は、何と言ってもその州都であるフェニックス市。人口は165万人。しかも、本年(2023年)、国勢調査局の調査では、アメリカで最も人口が増加している市は、フェニックスだと発表されました。また、フェニックス市は、全米で5番目に大きい都市となりました。

最新の国勢調査局による発表では、

① ニューヨーク

② ロサンゼルス

③ シカゴ

④ ヒューストン

⑤ フェニックス

⑥ フィラデルフィア

⑦ サンアントニオ

⑧ サンディエゴ

⑨ ダラス

⑩ サンノゼ

の順だそうです。

 こんな暑い町になぜ人が集まる? 僕もフェニックスの住民なので、その原因追及に興味があります。

 まず、経済的な要因。生活費が比較的安い。僕は時々、カリフォルニアに行きますが、いつも、その物価の高さに閉口してます。ガソリン代がアリゾナに比べて、あまりにも高い。高速道路は、有料が多く、移動するにもコスト高。ましてや、そこに住もうとしたら、住宅はまず高すぎて僕などの庶民では、買えません。と言ってアパートなんかに住もうなら、毎月の賃貸は、とてもじゃないけど、手が出ません。

 以前、カリフォルニアの会社から仕事の誘いがありましたが、引っ越さなくて良かったと心から思ってます。給料が倍になっても、支出は倍以上です。

 近年、カリフォルニアからアリゾナに移ってくる人を多く見かけます。カリフォルニアで自宅を売りに出して、そのお金でアリゾナのもっと大きいな家を購入しても、現金が残るんです。これは魅力的ですよ。

 フェニックスの人口が増えているもう一つの要因は、何と言っても、気候です。僕が暖かい場所を求めて来たんですから。似たような人は結構います。特に、イリノイ州シカゴから冬の厳しさに嫌気がさして、アリゾナに来る人の多いこと。他州からアリゾナに移住してくる人の内、その州から一番多くの人が来ているのかと調べると、やはり、イリノイ州なんです。

 シカゴは、寒いだけでなく、近年、銃暴力で毎日人が撃たれて亡くなっています。特にシカゴ南部の黒人区域では、深刻な問題となっています。僕が知っているだけでも、かなり多くの黒人の家族が安全を求めて、フェニックスに移って来ています。

 面白いのは、かつてNBAバスケットボールの選手権大会で、シカゴ・ブルズのチームがフェニックス・サンズとファイナル戦を戦ったことがありました。しかも、そのスタジアムは、フェニックスです。会場は、ファンで満員。何万というファンが詰めかけ、応援に来ました。ほとんど人たちがフェニックスやその周辺に住む住民です。ところが、試合が始まると、半分くらいのファンは、シカゴ・ブルズを応援しているんです。フェニックスに住んでいても、もともとシカゴからきた人たちは、シカゴ・ブルズのファンなんです。その上、シカゴ・ブルズには、あの有名なマイケル・ジョルダンがいたんですから、なおさらのことでしょう。

 温暖な気候は、神経痛や喘息などで苦しんでいる人にとってもプラスになります。フェニックスは、かつて肺結核の患者が全米から来て治療を受けたことで有名です。アリゾナには医療施設が多く、医療関係の仕事に就く人がたくさんいます。

person riding ski on snow field

アリゾナは砂漠だけじゃなかった

 アリゾナに雪が降るなんて想像もしていませんでした。スキー場があるなんて夢にも思っていませんでした。
 暑いだけの場所かと思ってたら、アリゾナは、その地域によって標高の差がかなりあって、山岳地帯ですと、気温がぐっと低くなるんです。
 ある1月の日、まだ学生だった僕は、クラスメートが週末にスキーに行くというので、どこかコロラドにでも行くのかと思って尋ねると、日帰りで行ってくると言うではないですか。フェニックスから車で2時間北に行くとスキー場があると聞いて、そんなバカなと思ったほどです。
 それで、アリゾナの地図を引っ張り出してよく見ると、確かに標高が高い山岳地帯がアリゾナの北から東に広がっています。
 もっと驚いたことがありました。よく地図をみると、北の中継地となるフラッグスタッフという町から、さらに北に上がって行くと、ハンフリーズ・ピークという山があります。その標高が、12,063フィート。メートルに換算して見たら、何と、3,851メートル。つまり、あの富士山よりも高いんです。
 「アリゾナにあるスキー場」とは、納得のいく事実でした。
もっとよくアリゾナの地図を眺めていくと、実は、アリゾナのスキー・リゾートは、3箇所もあるんです。
① フラッグスタッフの北側にあるスノーボウル・スキー場
② アリゾナ東側のホワイトマウンテンにあるサンライズ・スキー場
③ アリゾナの南、ツーソン市の近くにあるマウンテレモンのスキー場

 わざわざ冬の寒い長野県からアリゾナに来た僕は、雪を見るためにスキー場にいくなんてことは、まずあり得ないですね。そこで、夏に行ってみました。3箇所全部、夏に行きました。
 そこは、やはり日本を思い起こすような山間で、白樺の木々が空高くそびえています。ここがアリゾナなんだと思うと、また別世界に来たように不思議な感じを持ちました。


 でも、結局、子供ができると、雪を見せてあげたいという親バカが始まり、雪を見にフラッグスタッフまで運転をして、スキー場まで行って来ました。

 面白いのは、標高の差で驚くほど気候に変化を及ぼすということでした。フェニックスからフラッグスタッフまで、高速道路を飛ばして約2時間余ですが、車窓から見える景色が砂漠から森林地帯と変わっていくんです。
 もっと短時間で景色の変化を見ることができるのは、3番目のマウントレモンです。マウントレモンの麓からカタリナ・ハイウエイという舗装された道路を上って運転します。ハイウエイの入り口からスキー場までたったの30分で着いてしまいます。この30分の間にサボテンの林が松の林に変化していくのを見るんです。
実は、この標高の違いこそ、アリゾナの自然を実にユニークでダイナミックなものにしてくれていることが、わかりました。

two young men sitting on grass enjoying sunset

綺麗な砂漠

 日本にいた頃は、砂漠と言えばサハラ砂漠を想像してました。ラクダに乗って、沙だらけの地面をどこまでも進み続けるような。それから、西部劇の映画に出てくるような低木ばかりで埃っぽい荒地も想像してました。そんな所に町を作るなんて、余り賢くないなあ、などと思ったりしてました。

 その僕がここアリゾナに来て、住めば住むほど、キレイな砂漠だなあ、と感動するようになったんです。もちろん、雨は余り降らないので、乾燥しきっていますが、この砂漠には色があるんです。それは、土色じゃあなく、鮮やかな赤だったり、黄色だったり、オレンジ色だったり、とにかく、カラフルなんです。

 あとで知ったんですが、アリゾナの砂漠は、ソノラ砂漠と言って、メキシコの北部一帯から広がっている特異な砂漠地帯です。隣のニューメキシコ州に行ってもカリフォルニア州に行っても、こんな砂漠にはお目にかかりません。

 鮮やかな色は、サボテンやら砂漠特有の植物が、ある特定の時期に思い切って咲き誇る花のファッションショーなんです。特に3月から5月にかけて、街中やちょっと離れた砂漠地帯に行くと、野花や木々の花が一面に咲いていて、我が目を疑うほど、別天地にいるような感覚を持つんです。

 3月になると、カメラを持って近くの山に行きます。そこは野花のパラダイスです。山の裾野一面に黄色やピンクなどの色が混じり合って、野花がひしめき合って咲いているのです。まさに春を待っていたんです。

 パロバーデという砂漠に育つ木があります。パロはスペイン語で枝。バーデはスペイン語で緑の意味です。かつて初めてこの地にやって来たスペイン人たちが付けた名前でしょう。この木は、アリゾナ州の州木に指定されています。この木が5月になると、素晴らしい黄色の花を咲かせます。街を歩くと(というより車で走ると)、これが黄色でなく、薄いピンクだったら日本の桜が満開しているような光景だなあと思ったりします。

 それから、サワロという大型サボテンがいたる所に突っ立っています。サワロは、5月になると、木のてっぺんにクリームのような白い花を咲かせます。とても背が高いサボテンなので、その花を上からまたは横から写真に収めようとすると、はしごが必要です。この花を目指して、ミツバチが集まり、実がなると、鳥が食べにくるんです。なにせ、見上げるように高い所にある花なので、鳥も安心しているのかもしれません。

 そのほか、いろんなサボテンが5月には、真っ赤な花や、真っ黄色な花を見せてくれるんです。

 砂漠なんて何もない、などと言ったら大自然に失礼に当たります。

man standing on rock formation

写真を始めました

 日本では高校生の時、カメラに興味があったんですが、実際に一眼レフで被写体を撮ってみるということはありませんでした。そんな僕も、いよいよ写真を始めました。一眼レフのデジタルカメラを買い、大学のクラスを取り、プロを見つけては何回もトライしてみました。

black dslr camera on beige wooden surface

 ワークショップがあると聞けば、すぐ参加して、プロに質問したりして、何とか上達しようと頑張ったんです。毎日のように、被写体、光、色、角度、影などが頭を廻りまわっていました。夕焼けと朝焼けを撮るのが、写真上達の早道と聞いて、毎朝のように早朝に起きて、山や川などにカメラを抱えて行きました。そして、2年ぐらいすると、コンテストで入賞し、自信をつけました。

 アリゾナはとにかく自然が美しい。朝焼け、夕焼け、鮮やかなサボテンの花、赤土の岩山、そして、何よりグランドキャニオンがあります。

 セドナもあります。カメラを抱えて、山道を歩きました。結構良い運動です。

 でも最近は、自然美もさることながら、人を撮ることに楽しみを覚えています。こちらの人は、とにかく恥ずかしがらない。レンズを向けると必ず笑顔でポーズを取ります。「チーズ」なのか「ハイ」なのか「イェー」なのか。とにかく口で何かを声を出したりしてくれます。シャッターを切ると、どんな風に撮れたら見せてくれ、と言ってくる人も多い。僕は、いろんなイベントに顔を出して、そこにきている人たちにカメラを向けます。「キャナイ・テイク・ピクチャー?(写真をとっていいですか)」と声をかけると、「ノー」という人はいません。時々、「ホワイ?」と言って、なんのための写真か聞いてくる人もいます。要するにわからなければ、わかろうとして話しかけてくれるんです。

 イベントには、積極的に顔を出して、写真を撮りました。なにせ、出版の仕事をしていますから、イベント広報担当者に掛け合って、報道カメラマンですと言って、許可を取ります。プロ野球、ゴルフトーナメント、サイクリング・レース、アイススケート・ショー、コンサート、アコンベンション、展示館、フェスティバル、ファッションショー、パレード、または政治家の記者会見など、いろんな場に出て、シャッターを押し捲りました。僕にとってもいろんな勉強ができて楽しく写真を上達させることが可能となりました。

 僕はアリゾナの人たちが大好きなんです。もちろん変な人もいますが、フレンドリーな人が多い。毎日晴天のせいでしょうか。太陽が明るい心を人々に与えているかもしれないと思ったりします。日本では、「夕焼け小焼けで…」と歌って、明日は天気になあれなんて、空に向かってお願いしたりしましたが、ここでは、明日の天気はまず考える必要がないんです。まずほぼ確実に、朝には陽が昇ってきますから。さて、明日も朝焼けの写真を撮ったら行こうかなも、と思います。

view on the airplane window

1)なんで わざわざアリゾナに?

「なんで、わざわざアリゾナに?」と聞かれることがあります。実は、アリゾナは僕にとってホームなんです。

 日本では、中学生の頃から海外に出たくて、日本の外の世界を夢見ていました。日本以外ならどこでもいいと思っていましたが、なにせ外国語は英語しか勉強していないので、自然に英語圏に行きたいと望むようになっていました。

 中学生の時にオーストラリアの中学生とペンパルになり、文通をはじめました。スーザンという女の子が送ってくれるオーストラリアの写真には、とても広大な砂漠の景色があり、印象的だったのを覚えています。

 「日本のようにジメジメしない国…カラッとした土地に」と思うようになりました。

 大学を出て、東京でサラリーマン生活に入っても、海外への夢は心の中にしっかりと残っていました。僕は、日本の企業の終身雇用制やら、年功序列、社会の上下関係に大変疑問を持って、その気持ちがどんどん大きくなるにつれ、日本を離れることに気持ちが固まって行ったのです。

 就職して4年目に一大決意をしました。辞表を出して、会社を辞めたのです。会社の上司はとても驚いていましたが、実は、その半年前から着々と準備をしていたんです。

 アメリカに行こう。大学に戻ろう。本格的に生活をしてみよう。

 そして、アメリカの大学を色々と調べているうちに、アリゾナ州立大学に目が止まったのです。アリゾナ…。砂漠の地。とても暑そう‥。アリゾナと言えば、西部劇の映画に出てくる「モニュメントバリー」が最初のイメージで頭の中に浮かび上がります。そして、バーン、バーンと銃声が鳴り響き、インディアンが次々と死んでいく…。あまり平和とは、かけ離れていそうだけど、全く日本的でないこの地。

 そして、決めました。この大学に入ろうと。

 もう一つ暑いところを選んだ理由があるんです。

 それは、僕の体のことです。僕は、3歳の時に小児麻痺にかかり、右足が不自由です。右足は血液の循環がよくなく、小さい頃はよく母親にマッサージしてもらったことを覚えています。生まれと育ちは長野県。避暑に格好の場所ですが、冬の寒さは、こたえました。右足が動かなくなるんです。血が止まってしまったように、とても冷たいんです。

 それで、いつも暖かい場所に移りたいと思っていました。

 アリゾナは、暖かいといういうより、猛暑の夏が長く続く場所だと思い、ここなら大丈夫だと、確信したのです。

 8月11日にアリゾナのフェニックス国際空港に到着しました。ながーい間夢に見た海外の地。そして、アリゾナ砂漠。空港からタクシーであらかじめ予約してあった安ホテルに向かいました。その車窓から飛び込んでくるアリゾナの光景は、思った通り全く日本的でない、荒々しい砂漠の姿でした。色は緑でなく茶色。ムーっとする熱風。しかも、僕がここについたのは、真夏の中の真夏、8月です。外はすでに摂氏50度くらい。こんな所に人が住んでいるのかなと、疑ったほどです。

 ホテルにいて数日後にアパートを見つけました。大学はフェニックス市の隣にある学生街、テンピという町です。その大学の近くに安いアパートを見つけました。入居の初日に、電力会社から僕のアパートに電気が入るのは明日からです、と言われ、その日は電気なし。つまりエアコンなし。これには参りましたね。夜になっても外が涼しくならないんです。とにかく寝られない。七転八倒を寝床で繰り返し、ついに決めました。外のプールに入ろうと。多くのアリゾナのアパートには、プールが備えられています。そこでプールの水に体を入れ込むと、なんと、ぬるま湯のようなプール。でも、寝床で苦しい思いをして一夜を明かすより、ここで一晩耐え抜こうと思いました。

 こんなアリゾナ生活の出発だったんです。

 正直、とんだ所に来たもんだ、と思いました。日本で見たテンピの地図から想像していた町とは、格段に違う景色。通りの一角から一角まで、東京のような感覚で歩けるものと思っていたら、その距離が結構あるんです。まだ道路がやけに広くて、徒歩で買い物など行けたもんではない。そこで早速自転車を購入して動き始めたんです。

 そんなある日、アパートのプールサイドに座って空を眺めていました。すでに夕日が沈んで少し涼しい風が体を柔らかに撫でていた時です。空の色がオレンジから濃い赤に。そして紺色からコバルトブルーのように変化していくのをじっと見つめていました。アリゾナの空は大きいんです。西の空がどんどん色を変えて暗くなっていくのを1時間ほど見ていました。その時、アリゾナってなんと美しいんだろう…と心の中から感動が芽生えて来ました。この感動はいまでも忘れることがありません。

 ここにずっと居よう…アリゾナにずっと住んでいたい…という思いが突き上がって来ました。それから、アリゾナの美に魅せられる日々がずっと続いているのです。