man standing on stage facing an american flag

忘れてはいけない過去

 僕がイノシタさんと初めて会ったのは、確か1998年に、日本関係のイベントに行った時のことだったと思います。

 日焼けしてたくましい顔に笑顔を絶やさない人で、会ってすぐ好感を持ちました。もう80歳近いと言われて、年を取ったと笑っていました。アリゾナのグレンデール市で長い間農業をしていたとのことで、農作業で鍛えた体には、想像を超える苦闘の歴史があったように感じました。

 そこで、イノシタさんが第二次世界大戦中、米兵として日本に行ったことを知り、彼の人生に興味を持った僕は、色々と尋ねたんです。

 そこで、何か、今まで全く知らされていなかった歴史を、少し垣間見たように思いました。ちょうど月刊「オアシス」を発行して間もなくだった僕は、彼の家に伺って、インタビューしたいと思い、その旨を彼に伝えたのです。すると、「インタビューなんて、大それたことは、、、」なんて、恐縮していましたが、僕が是非とお願いし、実現することになりました。

 イノシタ・マサジ。漢字では井下正次。日系2世のアメリカ人。ご自宅に伺うと奥さんにも会えました。奥さんも日系2世アメリカ人のヒサエさん。

 イノシタさんは、熊本県からアメリカに移住してきたご両親の間に生まれ、カリフォルニア州のフレスノで育ちました。1919年生まれとのこと。

 楽しく育った一家を襲ったのが、強制退去と強制収容という理不尽なアメリカ政府からの処遇だったのです。

 1941年12月7日、日本軍がハワイのパールハーバーを襲撃。この日を境に、日系人は、アメリカ生まれの市民であるにもかかわらず、急遽、敵性外国人というラベルを貼られてしますのです。

 パールハーバー襲撃から2日も経つと、FBIがイノシタ宅に現れ、お父さんが連行されます。翌年4月には、一家が立退を強制され、アリゾナのヒラリバー強制収容所に連れて行かれました。

 収容所に入れられた日系人は、全員、米国への忠誠を試され、書類にそれを明記されることを求められました。中には、忠誠を拒否し、さらに厳しい収容所に連行される人も多く出ました。

 さて、イノシタさんは、忠誠を表明し、さらに米軍への志願をしたのです。当時、米軍は、日本語がわかる兵士を求めていたのでしょう。収容所に入っている若い男性に志願を勧めていました。

 イノシタさんは、自分が志願すれば、収容所に入っている両親や兄弟が、政府から良く見られるのでは、という期待があったと話してくれました。

 ところが、この志願が、イノシタさんを苦境に追いやったのです。周りの一世や帰米という一時的に日本に戻って教育を受けた後、アメリカに戻ってきた二世の人たちから、ひどい非難をされたのです。

 イノシタさんは、家族からも冷たい扱いを受け、お父さんとは難しい関係になってしまったようです。戦争が終わり、除隊してグレンデールで農業をしていた家に戻ると、農業の手伝いもさせてもらわす、一人で家を出て、転々と農家で仕事をしました。「ずいぶん貧乏をしましたよ」と笑う。

 こうした苦渋の時を過ごしながら、アリゾナの日系人社会に根を下ろし、さまざまな分野でボランティアとして活動してきました。学校や教会などに招待されて、当時の収容所の話をし、戦争の悲惨さを訴えたのもイノシタさんでした。

 彼の話を何回か聞くチャンスがありましたが、そこには、戦争への憎悪、平和への希求、そして、国家と国民の在り方などを考える機会を、一般市民に提供していたように思います。

 国家への忠誠がもたらした家族の離散。戦争の正当化と少数民族への偏見。国家のためという大義面分で苦しみを負う一般市民。

 イノシタさんは、奥さんを亡くしてから、一人で生活をしていましたが、会うたびに見せてくれた笑顔は、今でも忘れられません。その後、故人となってからも、イノシタさんが僕に教えてくれた人の生き方を、僕も大事にしていこうと思っています。

 歴史の教科書には、登場しない彼ですが、実は、数えきれないほどのイノシタさんが、このアメリカの国にいて、社会を支えてきたことを、決して忘れてはならないのです。

記念碑を前にスピーチをするイノシタさん(2011年11月6日)

 イノシタさんが収容されたヒラリバーの収容所は、その姿こそ消えてしまっていますが、彼が何回も訪れて清掃をしたヒラリバー収容所跡記念碑は、これからもその歴史を伝え続けていきます。

american flag hanging on wooden fence

学校で教えないアメリカ史、その3

戦争花嫁の悪戦苦闘

 アリゾナは、空軍基地があり、そこには、米兵と結婚した日本人女性がいます。第二次世界大戦で日本が敗北し、アメリカの駐留軍が日本に上陸すると、多くの若き米兵たちが日本人女性と結婚しました。そして、米国に帰国するとき、一緒にアメリカに渡った女性は、「戦争花嫁」と呼ばれました。

 僕は、アリゾナに学生として来たので、こうした女性達のことを知る由もありませんでした。しかし、いろんな出会いがあり、少しずつこうした「戦争花嫁」の女性を知ることになります。

 多くの彼女達は、全く異国で、言語と文化の違いに困惑し、しかも夫の家庭内暴力やアルコール依存症などで、地獄のような生活を経験しています。

 しかも、日本という敵国から来たわけですから、社会からも冷遇を受け、「ジャップ」と呼ばれて軽蔑されること多々でした。中には、離婚して日本に帰る人もいましたが、そのまま、アメリカに残り、子供を育てて家庭を守った人たちもたくさん見ました。

 日本で英語教育を受けたわけではないので、いわゆるブロークン・イングリッシュと言って、何とか通じれば良いという英語で生活をきりもみしていました。

 ただ、僕が感心したのは、多くのこうした女性達は、その厳しい現実で揉まれて、逞しい、ということでした。英語はわからないアメリカ人が悪いのよ、と開き直って、堂々と生きている女性を何人も見ました。

 こうした人たちに焦点を当てた歴史は、学校で学ぶことはありません。でも、これが、現実で、いわゆる無名の女性の悪戦苦闘がアメリカの地にあります。

 こうした女性を母として生まれてきた子供達が、今、社会に根を張り、生きています。アメリカという移民の国。違いがあればこそ、価値が生まれのかも知れません。

a sculpture of a soldier holding a rifle

学校で教えないアメリカ史、その2

ナバホ暗号部隊

 アリゾナでよく見かけるアメリカ先住民の人たち。何となく親しみ深く感じる彼らの顔には、やはりアジア系の血を見ることができる。果てしない遠い昔に、アメリカ大陸にやってきた多くの先祖たちは、モンゴル系の人たちだったようだ。

 その中でも、一番多い部族がナバホ族だということを、知ったのは、僕がアリゾナに来て数年も経った頃だったように思う。しかも、アリゾナ州内に、ナバホ.ネーションという巨大な居留区があるなんて、何も知らなかったのです。

 時々、先住民の伝統工芸や儀式用のダンスなどを見るチャンスがあり、興味を抱きました。何か、日本のアイヌの人たちの伝統工芸に似ているように思い、親しみを感じてきました。

 さて、ある時、日本人の写真家である河野謙児さんを知る機会に巡り会いました。河野さんは、当時、長い間、ナバホ・ネーションに住み、ナバホの人たちの写真を撮り続けていました。そして、写真集が出版されたのです。この写真集は、「NAVAJO CODE TALKERS」というタイトルです。日本語では、「勇士達、ナバホ暗号部隊」。第二次世界大戦中、アメリカ軍が使った暗号にナバホ語を使ったため、日本軍が暗号解読できなかったという歴史的事実があります。

 僕は、全くそのことを知らず、それから、調べ始めて、驚きました。ナバホと日本との奇妙な繋がりが見えてきたからです。

 これも、歴史の授業で教えません。軍事機密だったために、第二次世界大戦が終わってから長い間、アメリカの国内でも知られることがなかったのです。

 僕は、河野さんに誘われて、ナバホ・ネーションの首都であるウィンドーロックという町に行きました。そこで、ナバホ暗号部隊のパレードがあったのです。かつて暗号部隊の兵士だった人たちと、いろんな話をする機会に巡り合うことができました。

 もう一つ、ナバホ族と日本との奇妙な関係を知りました。

 それは、広島と長崎に落とされた原子爆弾のウラニウムが、ナバホ・ネーションから発掘され、ナバホ族の人たちが労働に使われたということです。この労働は、大変危険な放射能を浴びる仕事でしたが、ナバホの人たちには、その説明は皆無で、多くの人たちが癌などでなくなってしまいました。

 ここにも、非情なる人権無視の歴史があります。

photo of a fence with barbed wire

学校で教えないアメリカ史、その1

日系アメリカ人の強制収容

 僕は、アリゾナに来て、いろんな人と知り合いになることができました。その中で、日本関係のイベントで必ず出会う日系人の方々と少しずつ知り合うようになりました。顔は、日本人ですが、アメリカで生まれ育った人たちは、少々、日本から来た日本人の顔と趣が違います。やはり、アメリカ人です。この違いは、食べ物、空気、生活習慣が違うためでしょうか。中には、日本語が堪能の人もいますが、多くは、カタコトの日本語を使って、あとは英語のみという人たちです。

 でも、日本文化に関しては、それを親や祖父母の代から継承していこうと、一生懸命学んできた人が多いので、日本文化のイベントには、積極的に参加されている人たちと会う機会ができました。

 そんな中、僕が全く知らなかった歴史的事実に出会したのです。僕は、アリゾナ州立大学で歴史学を専攻しましたが、近代アメリカ史の中にも、まるでわざと無視してきたのではないかと思うほど、この事実は、多くのアメリカ人に知らされていないことだったのです。それは、第二次世界大戦勃発直後に起きた、日系人、また在米邦人の強制収容だったのです。しかも、ここアリゾナ州には、2か所の大規模な収容所があったのです。

 日本が真珠湾を攻撃し、その日からアメリカは、第二次世界大戦に参戦して、太平洋では、対日の攻撃に入りました。同時に、アメリカ国内では、日系人は、日本のスパイの可能性があるとして、12万人もの人たちが、住む所を追われ、収容所に送られたのです。

 僕は、その事実を知って、そのことにショックを受けただけでなく、このことを知らされてこなかったことにも衝撃を受けました。日本の歴史の授業でも扱っていないことです。

 それから、少しずつ、収容所の体験を知ろうと、インタビューに歩きました。事実を知れば知るほど、連邦政府が行なった非情なる人種差別と迫害に苛立ちを感じました。

 アメリカで生まれたアメリカ市民が、自分の政府から敵視されるのですから、許せない人権侵害の行為です。 その事実を知って、僕が出版していたオアシスに何回か特集として、掲載をしてきました。でも、日系2世、3世、4世の人たちが、今、アメリカ社会で信頼される立派な市民になっている姿を見ると、これは、大きな勝利の証かと思います。

アリゾナ州巡り、その4

日本人が知らないアリゾナ


ナバホ・ネーション

 アリゾナ州の5分の1位の敷地は、ナバホ・ネーションと呼ばれるナバホ族の居留区なのです。ナバホ・ネーションは、アリゾナだけでなく、ユタ州の一部と隣のニューメキシコ州の北西部に広がった広大な区域です。

 アメリカの先住民の中で、ナバホ族は最大の種族です。連邦政府がここを居留区と定め、独自の種族政府ができています。ネーションとは「国」ですが、外国に行くようなパスポートなどは、ナバホ・ネーションに入る時に必要ありません。

 夏場にここをドライブする場合は、一つ、覚えておかないといけないことがあります。

 それは、時差です。「エッ同じアリゾナ州の中に時差?」と思うでしょう。それが、あるんですよ。

 僕も知らなかったんですが、家族で夏休みを利用してナバホ・ネーションを旅していた時でした。僕らは、一つのビジターセンターに向かっていてました。予め持っていた情報では、午後5時まで開いているというので、4時ころに着けるだろうと計算して、運転して行きました。

 そして、到着。僕の腕時計は、4時5分過ぎ。そして、ビジターセンターに行くと、閉まっているじゃあないですか。ナバホの人が勘違いしたのか、と思ったんです。ところが、よく考えてみたら、ナバホ・ネーションは、アリゾナ州内でも、時間が隣のニューメキシコ州に合わせていることを思い出したんです。

 アメリカは、広大な国です。そこで、各州がデイタイム・セービングと言って、日が長くなる夏場は、1時間早くなるシステムを取っています。隣のニューメキシコもそうです。

 ところが、アリゾナ州だけは、それをしないんです。これが、頭の混乱を起こす原因です。僕は、仕事などで他州の人との電話などで通信をしますが、夏場は、ニューヨークと3時間の時差。冬場は、2時間の時差になります。時々これを間違いて、電話をしたら、向こうはすでにオフィスを閉めていた、なんてことを何回も経験しています。

 そこで、夏場のナバホ・ネーションなんですが、ここは、たとえアリゾナ州の中でもニューメキシコ州の時間なので、1時間の時差があります。

 ナバホ・ネーションを出入りをする人たちは、その度に時計を直すという作業をする必要があるんです。もっとも最近は、携帯電話が自動的に時間調整をしてくれますけれど。

 ここをドライブする時は、ちょっとラジオのスイッチを入れてみて下さい。全く意味のわからない言葉がスピーカから聞こえてきます。これは、ナバホ語です。時々、英語の単語が入っているのに気がつきますが、あとは、何もわかりません。

 この言葉が第二次世界大戦で日本軍を困らせた暗号としてアメリカ軍が使ったという事実があります。それは、後ほど触れてみたいと思います。

ウィンドー・ロック

 ナバホ・ネーションの首都は、ウィンドー・ロックという町です。この町は、アリゾナの東端にあり、隣のニューメキシコ州との州境に近い場所にあります。ウィンドーとは「窓」でロックは「岩」です。ここのシンボルは、大きな岩に巨大な穴が空いていて、窓のように見え、ナバホの人々にとって聖地です。この場所では、長い間、伝統的な儀式を行われてきました。

 ナバホ族は、他の多くの先住民と同様に、白人から受けて来た迫害の悲しい歴史があります。その中でこの居留区は、彼らの独自な文化を保護継承していく場所でもあります。
僕は、多くのナバホの人たちとも友達になりました。ナバホ・ネーションだけでなく、フェニックスなどの都市にもたくさん住んでいます。
 ナバホと日本との興味深い縁がありますが、それは、後ほど触れたいと思います。

モニュメント・バリー

 ナバホ・ネーション中の何箇所かは、すでに観光地として日本人の間でもよく知られています。例えば、モニュメントバリー。西部劇で有名なジョン・ウェインが主演の映画では、そのロケーションとして使われ、世界中で知られるようになりました。

 最近は、ここも観光化がかなり進み、今では、毎日何台も観光バスがひっきりなしに旅行客を連れて来ます。日本からの観光ツアーの一部にも入っていることが多いはずです。

アンテ・ロープ・キャニオン

 アンテロープ・キャニオンは、世界中から訪問者が耐えず、その岩と光の美が多くの人を魅了してやまない毎日です。僕が行った時も、ものすごい多くの団体客がきていました。ここでも中国語が飛び交っていました。
 ただ、アンテロープ・キャニオンには、アッパーとローワーの二つがあります。二つともいわゆるスロット・キャニオンという岩と岩の間が極端に狭い空間ができている所です。キャニオンとは、「谷」の意味ですが、ここは、谷と言うより、岩のひび割れの中に入って行く感じです。
なぜここが人気があるかと言うと、光です。上から割れ目を通って入ってくる太陽光線が赤い岩の表面に当たり、反射し、実に見事な色彩のある光景を作ってくれるんです。ここは、カメラを持って行き、しっかり写真を撮らないといけませんね。

 アッパーは、比較的観光化が進んでいて、駐車場からナバホの人が運転するジープでキャニオンの入り口に行き、そこから、ジープで来た人数分だけグループごとにキャニオンの中に入って行きます。中で、時々、ナバホの人がフルートで音色を流してくれ、何とも言えない雰囲気を作り上げます。また、カメラを抱えていると、ナバホのガイドさんが、シャベルで砂を宙に撒きます。すると、太陽の光線が砂に反射し、誠に神秘的な写真を撮ることができるんです。岩に落ちた砂がサラサラと下に落ちていきます。それにレンズを向けると、まるで絹の布が落ちているように見えます。
さすがガイドさんは良く知っている。
 それから一年後にローワーのキャニオンに行きました。ここは、入り口でナバホの人に入場料を払います。ガイドが必要かと聞かれたので、「ノー」と答えると、「それじゃあ、勝手に自分で行ってくれ」と言われました。ここローワーは、アッパーよりも狭い空間を岩肌に体を沿うようにして歩くのです。ですから、一般観光客は少なく、プロの写真家がよく訪れます。
 さて、歩いていくと岩の割れ目が見えました。割れ目から下を覗くとハシゴが備え付けられています。このハシゴをつたって下まで降ります。僕は、カメラバッグを背に、そして三脚を手に持って四苦八苦しながら下まで降りました。
 さっきあのナバホの人が入り口で「勝手に行け」と言った後、「何かあっても助けに行くのは困難だからな」と言われたのを思い出しました。
 そう言えば、ここにくる前にネットで昔ここで死んでしまったカメラマンの話が頭に蘇って来ました。
 それは、ヨーロッパからここに来た訪問客に起きた惨事です。雷雨が降り出したのです。すると、この周辺は、一気に洪水になり、鉄砲水がこの狭い谷間に入り込んで来ました。彼らは、行き場がなく、全員溺れ死んでしまったと言うことです。僕はここに来る前によく天気予報を見て、雨が降らないことを確認しましたが、何かあったら困るなあと思いながら、降りて行きました。
 さて、最初は良かったんですが、進めば進むほど、空間が狭まっていきます。僕は体が痩せているんですが、この細い僕でも窮屈になるほど、岩と岩の間の距離が縮んできます。三脚を持っていましたが、それさえもセットする場所が見つかりません。とにかく狭い。
ここに水が入って来たら、僕は必ず死ぬだろう、などと思いながら、進ん行きました。
ようやく反対側の出口に出ることができた時は、達成感が心を満たしいました。たくさん写真を取りました。
 後で、自分が撮った写真をゆっくり見ましたが、何回見ても飽きることがありません。それほど、素晴らしい自然の芸術作品なのです。

キャニオン・デ・シェー

 ナバホ・ネーションの中でも、余り、日本人が知らない自然美の場所もあります。例えば、キャニオン・デ・シェー。ここは、国定公園に指定されています。観光化は進んでいないので、人混みはありません。ここの見所は、何と言っても、「スパイダー・ロック」というものすごい高い塔のような岩です。この岩は2本の柱が隣り合って立っています。地上120メートルの高さです。これは、見れば見るほど、不思議な思いが湧いてきます。僕は、2回訪れました。風が結構強くて、谷に自分が落ちて行くんじゃないかと足がすくむほどでした。このスパイダー・ロックは、谷の底から突っ立っていますが、観光客が見るのは、それより上の崖端ですので、見下ろすようになります。谷の底に行って、ナバホ族の人がジープでツアーをしてくれるようですが、僕は、そこまで降りて行くのはやめました。崖の向こう側には、かつての先住民が残した遺跡が保存されています。望遠レンズで写真を撮りました。

ペインテッド・デザートとペトリファイド・フォレスト

 ペインテッド・デザートは、ペトリファイド・フォレスト国立公園に隣接しています。ペインテッド、つまり塗り絵をしたような砂漠ということでしょう。そして、ペトリファイド・フォレストは、化石の森です。

 ペインテッド・デザートは、確かにその中の通り、だれかが色を塗ったように、小さな丘の側面に横線が入っています。これは、地層の色ですが、その鮮やかな色彩が、そしてその規模が見事なものなんです。

 その中を走る道路は一本道で、時々、車を止めてゆっくり眺めてみると、誰かの塗り絵のように感じます。

 ペインテッド・フォレストは、その昔、地球上の大陸が一つに繋がっていて、アリゾナは、赤道近くに位置していた時があったんです。そして、亜熱帯地域で、恐竜が我が物顔で歩いていた頃、この一帯は、森林地帯。その森林が気象の変化で姿を消え去る時、無数にあった木々が地に倒れ、化石化したままアリゾナの地上に残ったんです。

 大木が倒れてそのまま化石となって横に寝たような風になっているものもあれば、細かく砕かれて、小さな石のようになっているものもあります。

 ここには、標識が立っていて、化石を一つでも国立公園の外に持ち出すと罰金が課せられると書いてあります。持ち出す人も結構いるようですが、公園の保護に協力しましょう。

アリゾナ州巡り、その3

日本人が知らないアリゾナ


ザ・ウェイブ

 この場所は、一生忘れません。そう何回もいける所でもありませんし、団体で行くことも不可能です。
 まず、許可証を取得しないと行くことはできません。その許可証は、アメリカ合衆国土地管理局が発行します。僕は、3月にネットで許可証の申請をしました。しばらくして、許可証が郵送されて来ました。立ち入り許可の日付けは、6月29日です。と言うことは、真夏の炎天下を覚悟で歩くことを意味します。
 さて、ザ・ウェイブとは、何でしょうか。僕は、たまたまある写真家が撮ったザ・ウェイブを見て、「ここに行こう」と決めたんです。その写真に写っている茶褐色の岩は、まさに、ウェイブ、つまり、海の波のような形をしています。
 これは、アリゾナ州とユタ州の州境にあり、地図で見ると、足が不自由な僕でも可能なように感じました。「行く」と決めたら、必ず実行しないと気がすみません。
僕は、3月から長距離の砂漠を歩くために、歩行訓練を始めて準備にかかりました。まず、ハイキング・スティックを買い、近くの山を歩くことからスタートしました。スコッツデールというフェニックスの隣町にある山に挑戦しました。朝から山を登り、その日の夕方には戻ってこれました。
カメラバッグには、十分な飲み水とクラッカーを入れ、転んだときのために、コンパクトな応急手当ての用具も入れておきます。それから帽子。頭上から容赦無くてり続ける太陽光線に気を付けなくてはなりません。
 そして、ザ・ウェイブのような携帯電話のシグナルがなくなる場所に行くので、小型の機械で、自分が歩いて来た場所がわかるハイキング用のナビも買いました。
こうして、3ヶ月準備をして、いよいよ、ザ・ウェイブに出発です。
6月28日は、ユタの小さな町のモーテルで一泊し、翌朝、車で向かいました。そして、いよいよ、ビジターセンターに着き、車を止め、ハイキング開始です。
背中のバッグには、カメラ1台、レンズ2個、水のペットボトル4本、クラッカー、タオル、応急手当用具一式あります。この日は、そろそろ7月になる頃です。やはり、夏の太陽が顔を照らしています。
最初は、僕以外誰も人がいませんでした。しばらくすると、若い男の人が三人歩いているのを見ました。
 なにせ、1日に10人しか許可書をもらえないんですから、この広い荒野に24時間で、たった10人の人間だけが歩くんです。
ここには、全く標識がありません。ですから、目的地につくかどうかは、全責任が僕らにあります。今まで道に迷った人はいないのかなあと、考えながら歩いていると、前にだれかが置いたのでしょう、小さなレンガの大きさの石を見つけました。これが目印です。これさえ、見落とさなければ、生きて帰れます。

 あとでわかったんですが、この男性三人はドイツから来ている旅行者でした。普通、足が健康な人なら、往復3から4時間で往復できるはずですが、僕の場合は、3時間して、ようやく目的地に近づくことができました。出発したのが朝の9時です。夜までに戻れば幸いです。
 さて、午後1時くらいに着きました。ところが、急に足場がそれまでの岩のような硬い地面から海辺にあるような砂場に変わったんです。地面を踏むと、足が砂の中に沈んでいきます。これには、参りました。なかなか前に進みません。幸い、一人のアメリカ人男性が近くにいて、僕のお尻を押してくれました。彼がいなかったら、あの砂地獄で、しばらく、もがいていたでしょう。彼にお礼を言うと、彼がフロリダから来た写真家だとわかりました。彼は、「実は、許可証なしできたんだよ」と僕に言うんです。僕は、「大丈夫でしょう。だって、周りに誰もいませんよ。見てくださいこの荒野を。仮に人が殺されても、救急車もパトカーも来ませんよ」と返事して、ペットボトルを一本、彼にあげました。
 さあ、彼と二人で写真を撮り始めました。とにかく、この波のような岩は、誠に奇妙です。長時間をかけて水と風が起こした風化作用でこうなったんです。自然の力は、人間の知力では計り知れません。
1時間位すると、彼は、写真を撮り終えたようで、先に戻って行きました。僕の方は、ちょっと疲れが出て、足が痛くなって来ました。そこで、ゆっくり休んで、慌てずに帰ろうと決めました。
 後からここに来た人たちもいましたが、皆しばらくして帰って行ったようです。2時くらいになると、ザ・ウェイブにいるのは、僕がたった一人です。周りは、本当に静かです。風の音以外に何も聞こえません。空には、飛行機も飛んでいません。鳥さえ一羽もいません。木がないので鳥も来ないんでしょう。


 さあ、そろそろ帰らないといけません。向こうの空が暗くなり、雷が聞こえます。嵐にあったら、生きて帰れないかも、などと思い始めました。


 ゆっくりと、朝来たところを同じように戻って行くようにしました。目印をいつも探して歩きました。ハイキング用のナビも見ています。途中、目印がわからなくなり、困りましたが、あちこちと歩いてみると、ようやく心当たりがある岩を見つけ、目印を発見しました。
結局、駐車場に戻ったのは、夜の7時です。何と、10時間の旅立ったんです。

アリゾナ州巡り、その2


日本人が知らないアリゾナ


チリカワ国定公園

 アリゾナ州の南東部、メキシコの国境に近いところにある岩山の谷です。しかも、岩の形が尋常ではありません。まるで、誰かがいたずらで置いたのではないか、と思うほど、柱のように立っている岩の上に一つの箱型の岩が、チョンと乗っかっているんです。
ここに行って写真を撮るには、日帰りは無理だと思って、前日にツーソンのホテルに泊まりました。そして、早朝に車で向かったのです。
 国定公園の入り口からビジターセンターに向かって、運転して行くと、数台の車が路上、しかも真ん中あたりに止まっているのが見えて来ました。
なんで、みんな車を止めているのだろうと、車の窓を開けて、よく見ると、なんと数匹の鹿の親子がゆっくり何かを食べている様子が目に飛び込んで来ました。
 僕は早速、カメラを手に車から静かに出て、レンズを鹿に向けました。

 時は、11月でしたが、南アリゾナはまだ寒くなっていません。鹿たちは、秋の木の実でも拾って食べている様子でした。
 それから、車を駐車場に止め、カメラバッグ、三脚、そしてハイキングスティックを持って、トレイルを歩くことにしました。ハイキングトレイルは、坂になっていて、谷の一番下まで降りて行き、そこから再び上り坂になります。降りるのは楽だったんですが、上り坂には、参りました。少しづつ休んでは、写真を撮って、また、歩く、ということを何回もして、ようやく、元の場所に戻ることができました。
でも、岩の柱が森の木のように突っ立っているのを、下からカメラに収めると、澄んだ青空が広がっていました。

 すっかり歩き疲れ、やっとの思いで駐車場に戻って来ました。そろそろ、帰りの時間です。これからフェニックスに戻るには、4時間かかります。
車を走らせていると、日が沈んで行き、空一面がオレンジ色に変わっていきます。
 そこで、車を止めて、もう一度シャッターを切りました。

scenic view of rock formation

アリゾナ州巡り、その1


日本人が知らないアリゾナ


グランドキャニオン・ノースリム

 グランドキャニオンは、世界の七不思議と言われるほど有名な大自然の芸術作品です。毎年500万人以上の人がここを訪れているということです。

 でも、そのほとんどは、サウスリムというグランドキャニオンの南側です。僕も時々行きますが、ものすごく観光化が進んでいて、自然を見に行ったというより、人を見に行ったと思うほどです。最近は、中国人の団体客が本当に多いです。中国語が飛び交っています。

 こうなると、僕のように、ゆっくり自然を楽しんで写真を撮ろうという気持ちで行っても、なかなか、そういう訳にはいきません。

 ところが、グランドキャニオンのノースリムは、最高です。距離的には、サウスリムから車を飛ばして3時間半くらいで到着します。なんと言っても、巨大な谷ですから、大きく回り道をして行かないと着きません。

 ノースリムは、標高がサウスリムよりも高く、冬は大雪で道路が遮断されてしまいます。ですから、毎年5月中旬から10月中旬までしかオープンしていません。

 このノースリムに行くと、真っ先に目に飛び込んで来るのが多くの鹿たちです。また白樺の林も綺麗で壮大です。人混みを見ることがありませんから、ゆっくりとカメラのファインダーを覗いて、大自然を楽しむことができます。

 10月のある日に、グランドキャニオンの夕陽の写真を撮りに行きました。この機会を逃すと、、そろそろノースリムへの道路が冬で閉まってしまいます。そこで、意を決して行くことにしました。

 朝の6時にフェニックスの自宅を出て、車でただただ北を目指して走り続けました。ノースリムに近づくと、すでに地面には雪がありました。昼過ぎにノースリムに着き、ゆっくりと歩きながら、紅葉の木々を写真に収めたり、鹿の写真を撮ったりしました。そして、夕方にキャニオンのビューポイントに立って三脚を取り出すと、すでに同じように夕焼けのキャニオンを撮ろうとしている写真家がたくさんに立っていました。

 日が沈みかける頃が最高です。斜めに入って来る太陽光線がキャニオンの岩にあたり、赤い岩がさらに鮮やかな色で光を反射します。しかも、太陽の位置が低くなればなるほど、全体の色のコントラスがどんどん変化して行きます。まさに、大型の自然映画を観ているような感覚です。

 と同時に、月が東の方から上がって来ました。この時間になると、急に温度が下がり、冷たい空気が肌に当たっているのを感じます。

 グランドキャニオンの頂上は平面です。そこから少しづつ姿を見せる月は、感動的でした。

 さあ、写真を撮り終わると、周囲はすっかり真っ暗。しかも寒くて体が震えて来ました。急いで、三脚をしまい、駐車場に向かいました。

 再び、車を飛ばしてフェニックスの自宅に戻ったのは、翌朝の2時頃でした。日帰りでノースリムまで行ったのは、これが最初です。でも、これが最後になるとは思っていません。

州都フェニックスってどんな町?その5


フェニックス日本親善庭園

 フェニックスと姫路との姉妹交流には、一つの大きな果実が実りました。それは、日本庭園です。

 日本から旅行でやってくる人に、「日本庭園がフェニックスにあります」と話すと、皆びっくりします。ロサンゼルスやサンフランシスコ、またはシアトルなど、多くの日本人に馴染みがある町ならともかく、このフェニックスの日本庭園というのは、結構意外なことのようです。

 もともとの発案は、姫路市の当時の市長さんがフェニックスを訪問した時に提案されたようですが、それにフェニックス市も乗り気になって、実現したものです。

 どんなものでも、ゼロからのスタートは、大変です。でも、将来のビジョンを持って、熱意と誠意で一生懸命に貢献した人たちがいたので、庭園も出来上がったんです。

 僕は、この庭園に行って、よく写真を撮りに行きましたが、フェニックスの市民にも人気があって、日本を全く知らない人にも日本文化の玄関口の役割を果たしているように思います。

 庭園内には茶室もあり、一般市民に公開して、裏千家の茶道を経験できるようにしています。アメリカ人が慣れない正座をして、この「ティー・セレモニー」に参加している姿を見て、心から感心している僕です。

himeji castle in japan

州都フェニックスってどんな町?その4


フェニックスの姉妹都市・姫路

 フェニックス姉妹都市交流委員会があって、フェニックス市と世界のいろんな国の都市とが姉妹都市交流をしていることがわかりました。

 日本人の人口がアメリカの他の大都市に比べて、かなり少ないのがフェニックスです。西海岸は、日本に近く、日系企業もたくさんあって、日本との縁が大きい都市がたくさんあります。けれどもフェニックスは、人口が増えているとは言え、日本人の数が増加しているように思えません。

 フェニックスは日本と縁が薄いのかと思っていましたが、意外なところで日本との関係を見つけました。

 それが姉妹都市交流でした。フェニックス市と日本の姫路市とは、すでに40年以上も前から姉妹都市の関係を作っていました。交流で姫路に行ったことがあるとか、姫路に住んだことがあるというアメリカ人に何人も会いました。これは素晴らしいことです。姫路の人たちもフェニックスを訪問したことがある人が多いはずです。人と人との交流が進めば進むほど、争いのない世界ができると思います。

 フェニックス以外のアリゾナの都市でも、このような姉妹都市交流が日本とできれば、と願うものです。