アリゾナに来た最初の日本人

 日本人が初めてこのアリゾナに来たのは、いつのことだろうか。僕は、そんな疑問がいつも頭を掠めていました。調べていると、20世紀初頭、農業労働者として日本人がやってきたことがわかりました。それは、重労働、貧困、そして差別待遇の連続を体験する人々でした。

 ある日、かつて、フェニックス日本国名誉総領事を勤めていた故トーマス・カドモトさんと話をしていた時、彼が、面白い情報をくれたんです。カドモトさんは、1917年にフェニックスで生まれた日系二世で、長い間、アリゾナの日系人社会に貢献してきた人です。アリゾナにいる日本人や日系人の情報は、彼が一番多く持っていました。

 その彼が、「多分アリゾナに来た最初の日本人だと思うが」と言って、大貫八郎という日本人のことを話してくれたのです。

 僕は、とても興味深くなり、その人の情報を探ってみました。

 大貫八郎は、アメリカでは、ハチロン・オーニックという名を使っていました。確かに英語っぽい名前です。

 1849年(嘉永2年)に栃木県市鹿沼市で医者の家に生まれた大貫は、自らも医者となることを志し、オランダ語を学びました。江戸時代からオランダ語が西洋を学ぶ窓口だったからでしょう。そして、開成学校で理学を修め、後に、函館に移りました。そこで、西洋人と知り合い、アメリカのことを知るのです。彼は、何としても渡米をしたいとの思いが募り、函館に泊まっていたノルウェー船に乗りこんだのです。まさに若き情熱あふれる青年だったようです。そして水夫として太平洋を渡り、アメリカに着いたのです。多分、一ヶ月以上の船旅だったでしょう。時は、1870年(明治3年)で、上陸した場所はシアトルでした。

 しばらくシアトルに滞在し、その後、一旦日本に帰国しました。多分、英語にも磨きをかけていたはずです。ある時、横浜で、アメリカ海軍の軍人と懇意になり、アメリカに再び渡るチャンスを手にしました。それは、1876年(明治9年)フィラデルフィア万国博覧会され、そこに展示する日本の工芸品を運搬するという話を知ったのです。しかも、その運搬は、アメリカ海軍艦艇が引き受けました。そこで、大貫は、その船に乗り込みました。

 この博覧会は、アメリカ合衆国独立100周年記念を記念して、盛大なイベントになりました。そして博覧会で、大貫は通訳を務めたのです。当時、和英の通訳ができる人は、非常に少なかったはずです。

 彼は、フィラデルフィアでの万博が終わると、日本に帰国するため、サンフランシスコへ陸路の旅に出たのです。

 ところが、何と、彼は、アリゾナに着くや、そこに留まってしまいました。今のように飛行機であっという間に西海岸に移動する訳ではありません。何日もかけての旅には、ホテル代、食費などが嵩み、彼の所持金が底をつき始めたようです。

 当時、アリゾナは、銀の採掘が盛んに行われており、まさにブームの産業でした。そこで、彼は、鉱山の経営者を訪ねて、そこで働き始めたのです。大貫は、すでに実業家としての才能が芽生え始めていたようで、鉱山の荷物運搬業を請け負って、利益を上げました。

 1876年になると、彼は、アリゾナのツームストンに行きます。まさに西部劇の町を闊歩し、再び彼の実業家としての才能が発揮される時が来ました。ツームストーンには、鉱脈発掘者が多く住んでいました。そこで、飲料水が不足していることに目をつけ、井戸を掘って水を確保し、その水を売って莫大な利益を手に入れました。

 その後、1886年、フェニックスで、事業を起こします。フェニックスは、まだまだ小さな町でしたが、成長の兆しが見えており、大貫の事業が再び登場しました。

 彼は、まず、ガス会社を設立し、市内の店舗にガスのパイプ設備を提供。1888年には、電気会社を設立し、市内に電力を供給しました。今のワシントン・ストリートとセントラル・アベニューの角に街灯が初めて灯されたのです。実は、このガス会社と電気会社が、現在のAPS社の始まりなのです。

 大貫は、フェニックスで白人女性と結婚しました。記録によると、この結婚が、アメリカにおける白人と東洋人との間の初の結婚となりました。今では、不思議なことではありませんが、当時、そのような結婚が大きな物議を起こさなかったでしょうか。ともあれ、夫婦の間で、二男二女の四人の子供をもうけました。混血の子供の存在は、フェニックスの人たちの目にどのように映ったのでしょう。記録にはないので、想像するしかありません。娘の一人は、有名はオペラ歌手(大貫春子)となりました。一人の息子は、フィリピンに移住し、太平洋戦争の時に日本軍に囚われたという情報があります。

 さて、地元の有力者となった大貫ですが、1904年に、事業の利権を全てフェニックス市に譲渡し、彼は、シアトルに移り、1905年、東洋銀行を創立。1908年には、大貫商会という貿易会社を立ち上げました。その後、コロラド州デンバーで活躍し、老後は、サンディエゴで暮らしました。そして、1921年に逝去しました。

 彼の死後、フェニックスの発展に貢献した大貫を表彰記念することで、銅像が作られることが提案されました。しかし、時は1930年代の排日の気運が高まるアメリカでしたので、実現されませんでした。

 以上がアメリカ史上初の日本人実業家の話です。

 磨いた語学と受けた教育はもちろん、その上に、彼が持つ根性と熱意が、大貫の人生を成功に導いたのでしょう。アリゾナに深い縁を残している彼は、これからも、APS社の創始者として、忘れ去られることがないと思います。

世界一の朝焼けと夕焼け

 アリゾナの朝焼けと夕焼けは世界一だ、と僕は思っています。先の投稿記事で、僕が夕焼けを見て、アリゾナにずっといようと決めたことを書きましたが、本当です。その魅惑は、言葉では言い表せないほど、感動を誘うのです。もちろん、毎日そのような赤い空が見えるかというと、そうではありませんが、少なくとも、日本にいた時より、はるかに数多くの素晴らしい夕焼けを見てきました。朝に強い人は、朝焼けも断然おすすめです。

 なぜ、赤くなるかというと、太陽が地平線に近くなると、光が斜めに差してくるので、太陽光線に含まれている青い光は、空に散らばってしまい、人間の目では見えなくなり、赤い光がそのまま、地球に届く、ということらしいです。

 でも、アリゾナは、どうして格別に色鮮やかな赤い色を出すのでしょうか。

 まず大きな要因は、乾燥した空気です。湿気があると、どうしても色が散らばってしまいます。

 次に挙げられる要因は、大きな空です。広大なアリゾナに広がる空は、それを遮る高山やビルが少なく、太陽光線が空いっぱいに放たれていきます。太陽が昇ったり、沈んだりする時、空の色がどんどんと変化し、その変化が、広大な空間に現れます。

 もう一つの要因は、砂漠の小さな砂塵です。乾燥していますから、砂塵は風で空に舞い上がります。アリゾナの空には、吹き飛ばされた細かな粒子状の砂塵が舞っています。こうした砂塵に太陽光線が当たり、空いっぱいに鮮やかな色彩を見せていきます。特にアリゾナのモンスーンの季節には、強風に噴き上げられた砂塵の数々は、大空に広がり、太陽の光を受けて、芸術作品を作り上げるのです。

 その上に、より感動的なのは、地面に広がる赤土や赤っぽい色を含む岩石です。空が赤くなり、太陽光線が地面を照らす時、地面の赤色が輝くのです。まるで、大空とそこに浮かぶ雲、太陽、赤土が共同作業で、一流芸術品を見せつけてくれているように思います。その時間は、時には、5分余りであったり、15分ほどであったりしますが、短時間の大自然の映像に魅せられ、心がホッとします。

 僕が写真を習っている時、プロの先生が僕に言った言葉を忘れません。「写真を上達したければ、朝焼けと夕焼けを撮り続けよ」と。

驚異の進化、サボテン

 僕がアリゾナに来て、いつも深い関心を持つのは、多種多様な形をしたサボテンです。アリゾナの砂漠は、ソノラ砂漠といって、独特な植物がたくさん繁殖しています。ジリジリと照りつける太陽光線、カラカラに乾いた空気、高温が長く続く夏の日々、突然襲ってくるモンスーンの嵐など。この厳しい環境に生き残るために、生物は、独特の形を作り上げて、繁殖してきました。

 特に、サボテンは、丸いものから、細長いもの、横に広がるものから、縦に伸びるものなど、その種類は300ほどあるようです。

 また、サボテンが咲かす花の色鮮やかなことは、驚くばかりです。

 このサボテンですが、自然の厳しい環境から少しずつ進化してきて、今の形になったのです。

 ここアリゾナは、かつて、熱帯原生林だったのです。「ジュラシックパーク」という映画で有名になった「ジュラシック」は、本当に昔の時代、「ジュラ紀」を意味します。ジュラ紀は、約2億年前の時代で、「ジュラシックパーク」の映画に登場した恐竜が地球を制覇していた頃です。

 アリゾナもその頃、恐竜たちがのし歩いていて、熱帯原生林だったのです。今のアリゾナからは信じられないことですが、実際、アリゾナのある広大な砂漠に、多くの恐竜の骨やその当時の大木の化石が見つかり、国定公園に指定されている場所もあります。

 こうした普通の木々や植物も、環境の変遷に対応して、進化をし続けてきました。

 サボテンがその良い例です。

 植物の葉は、太陽光線を受けて光合成をしていますが、強烈な太陽の光が照りつける砂漠では、葉の面積がどんどん縮まり、棘になったんです。

 僕は、写真撮影のために、砂漠を歩いていて、棘が手や足に刺さった経験が何回もあります。とても痛いです。そんな時のために、消毒薬とバンドエイドを欠かさず、持って歩きました。また、靴に刺さってしまった時は、自分の手で引っ張ることができないので、いつも、ペンチをバックパックに入れて、いざという時に使いました。

 面白いのは、また、大変危険なのは、ジャンピング・チョヤと呼ばれるサボテンです。ジャンピングという名前ですが、実際、ジャンプする訳ではありません。でも、極めて鋭い長く伸びた棘がいくつも出ていて、近くを歩いている動物(人間も含めて)が、少しでも接触すると、そのサボテンの一部が簡単に本体から離れ、動物の体に着いちゃうのです。しかも、この棘がしっかりと動物の肌の中に入り、簡単には離れません。

 僕も、一度、この恐怖の一瞬を体験しました。厄介な棘は、やはり、ペンチから何かを使わないと取れません。

 では、なぜ、このような形になったのでしょう。これは、自然の知恵というか、生存への力というか、素晴らしい進化の結果です。

 どんな植物も、子孫を残し、繁殖を続ける必要があります。ジャンピング・チョヤは、動物の体に着くと、動物が動くままに、遠くに行くことができます。そして、ある時、動物の毛皮から離れると、その場で、根を張って、さらに伸びていくのです。痛い目を見る動物には、かわいそうですが、厚い毛皮に覆われていれば、大丈夫でしょう。ただ、人間は、そういう訳にはいきません。十分気を付ける必要があります。

 このような、サボテンに大変魅力を感じ、いろんな写真を撮ってきましたが、何と言っても魅了する美は、サボテンの花です。

 長い進化の中で、花は、まるでサボテンの勝利を宣言しているように、神々しく感じます。どんなに環境が厳しくても、こんなに美しい花を咲かせるのだと、自慢しているようなサボテンを見て、たくましく生きる力が伝わってきます。

 近年は、地球温暖化が進み、サボテンも生死を左右するような状況に立たされていると、新聞などで報道されています。アリゾナの象徴であるサボテンに、さらにたくましく生きてもらいたいと願います。

日本文化を宣揚するアメリカ人たち

 アリゾナには、州最大級とも言われる「アリゾナ祭り」というイベントが、毎年2月に、フェニックス市で行われています。1984年から始まったこのイベントは、もはや、フェニックス市民にとって大変親しみのあるフェスティバルに発展しました。

 僕は、何回もこのイベントに行って、レンズを通して、いろんな人を見てきました。カメラのファインダーには、多種多様な人々が笑顔を見せて、楽しんでいる光景が映し出されます。

 僕が驚いているのは、こうした日本文化を宣揚する祭りの実行委員の半数以上が地元のアメリカ人だという事実です。日系アメリカ人も多くいますが、白人も多く、とても献身的に運営準備に励んでいるのです。

 そして、祭りの当日でも、折り紙を教えるアメリカ人、剣道や柔道を披露するアメリカ人、日本舞踊を踊るアメリカ人、和太鼓演奏をするアメリカ人、和食を提供するアメリカ人、等々。これほど多くのアメリカ人が日本文化の紹介のために、このフェニックスという日本人が誠に少ない町で、日本の祭りを成功に導いている事実は、驚異的です。2日間のイベントですが、8万人ほどの市民が集ってくるのですから、大規模な祭りです。

 長い間、祭りの準備運営に中心的存在として働いてきたケリーさん、ドリスさん、べバリーさん、故テッドさんなどは、日本から来た日本人の僕が舌を巻くほど、身を削る思いで、頑張っています。

 これを、日本からやって来た日本人だけが、このようなイベントを立ち上げようとしても、まず、不可能に近いことだと思います。

 逆に、この地に生まれ育ったアメリカ人がエンジンとなって行うイベントであるからこそ、地元社会に根付いてきたのでしょう。

 その意味で、アリゾナ祭りは、単に日本祭りではなく、アリゾナの社会に、また市民に、文化の大切さ、文化の偉大さ、文化の美しさを訴えていく貴重な意義があるはずです。

 精神文化が貧弱になり、暴力が横行する社会は、惨めなものです。よくニューヨークやシカゴなどからアリゾナにやって来る人が、「アリゾナには文化がない」と言うのを聞きます。もちろん、ニューヨークやシカゴのような文化を期待しても、場所が違うのですから、期待はずれでしょう。しかし、アリゾナにも、陰で一生懸命、文化の宣揚に人生を費やしている人がたくさんいることを、知ってもらいたいと思います。

red fire alarm switch during nighttime

消防署を作らなかった町

 どんな市や町にも警察と消防の機関が当然あると思っていました。僕が、ケーブクリークという町に行って、町会議員や市長と会い、インタビューした時、この町には、消防署がないということを知らされ、びっくりしたのです。

 ケーブクリークという町は、フェニックス市の北側にあり、山間にできた古い町です。もともと、山と山の間を騎兵隊がアパッチ族を撃退するために作った軍用道路に、店ができたりして、人が集まり、のちに金鉱が見つかって、人口が増えた町です。もちろんこれは、19世紀の話。

 そして、牧場を開く者などがやってきて、まさに西部劇に登場するような街並みができたのです。

 その後、サワロの巨大なサボテンの林と、広大な自然の風光美に誘われて、いろんな人たちが入植してきた。多くの人は、かなり広い敷地に家屋を作り、馬を飼育し、砂漠の山を乗馬で楽しむようになりました。

 さて、ケーグクリークのマクガイヤー町会議員を訪ねて、話を聞いてみました。とてもフレンドリーな人ですが、カウボーイハットをかぶって、いかにも西部を楽しんでいる様子でした。

 彼が強調するケーブクリークの強みは、住民が「自由」を満喫しているということでした。アメリカは「自由」と「平等」の国。少なくとも、それを標榜している国で、「自由」がなければ、アメリカではないと言います。

 彼の言う「自由」は、こういうことでした。

 他人から指図されないこと。他人というのは、政府も含みます。つまり、町会議員の政治家の彼が、政府は人の自由を奪うべきではない、と言うのです。そこには、政府や権威が、人を支配することに対する嫌悪感と、それをできるだけ排除して、自由を守る仕事が、議員のすべき役目ということになります。

 そこで、面白い議題に入りました。それは、消防署です。

 町には、当時、運営する消防署がないのです。そこで、消防作業は、私企業に任せています。住民も、自分たちが払う税金で消防署の運営をするのは、税金の無駄使いだという論理が通用しているのです。つまり、個人の「自由」が優先し、政府は、それを邪魔しないということです。

 では、万が一火事になったら、どうするのでしょうか。私企業の消防サービス業者は、火事が起こった時の消火を希望する住民に、会費を毎月集めます。

 いざ、火事発生の時、この業者が消火作業をします。会費を納めている住民には、無料のサービスとなり、会員でない住民も、火事になると、この業者が消火作業をします。その後、請求書が業者から送られてきます。大方の非会員は、火災保険に入っており、保険で請求額をカバーするというものです。

 入会か非入会かは、住民の「自由」なのです。政府が税金を徴収して、サービスを提供するのではない、というシステムです。

 これが、アメリカ人の「自由」なのか、と僕も舌を巻きました。

 彼は、「政府は小さくなくてはならない。政府が大きくなると官僚化が始まり、人々の自由が奪われる」と言います。これには、「政治権力は危険で、腐敗する」という思想が流れているように思いました。

 アメリカに定着した個人主義の一面を見た思いです。ただし、これは、ある程度高所得者層でなければ、可能ではないでしょう。

 さて、話は、地球温暖化。ただでさえ暑いアリゾナ。そして水不足のアリゾナです。夏は特に、気温上昇と空気の乾燥化で、山火事が頻繁に発生しています。

 ケーブクリークに広い敷地を買って、家を建て、自由と自然美を楽しんでいる住民には、山火事の脅威が、日に日に大きくなっています。いざ火事が起きた時に、迅速な、しかも効果的な消火作業が必要です。

 こうした状況変化を背景に、ケーブクリークの町政府に、消防署を設置するように要求する住民が多くなってきました。そして、ついに2022年、町の消防署が誕生しました。今後の課題は、消防署の運営と高性能な消防機器の設置に使う資金の調達です。住民が嫌がる増税もしなければなりません。個人の自由か、社会の安全か。すでに択一の余裕がありません。どこかで、自由を犠牲にしても、地域が平和と安全でない限り、住民の幸せは保証できないからです。これからも、自由と責任との関係を追求していかなければなりません。そして、真の自由とは何かを問う時が来ています。

us flags in front of a house

社会福祉は怠け者を作る?

 僕が今の家に引っ越してきた次の日の朝。僕は、ガレージのドアを開けて、バタバタと片付けをしていました。すると、ある白人の男性が寄ってきて、話かけてきたのです。彼は、当時、70代後半。僕の家と道路を挟んだ向かいの家に住んでいる人でした。バートという名で、握手し、近隣の人同士、仲良くしようと話しました。

 彼は、僕がどこから来たのかと尋ねましたので、僕は、フェニックスに長い間住んでいるけど、元々は日本から来たのだと言いました。すると、「おお日本か。俺も日本に行ったことがあるよ」と言うではありませんか。

 彼は、退役軍人。第二次世界大戦で米軍の兵士として、太平洋の戦線へ出兵しました。そして、日本が降伏すると、あのマッカーサー率いる進駐軍の兵士の一人として、日本に行ったのです。

 あまり詳しく知るチャンスがなかったのですが、彼が言うには、日本で日本女性と一緒に暮らしたことがあるようで、一時的にガールフレンドとして付き合っていたようです。でも、この女性と結婚することはありませんでした。よく面倒を見てくれたと、感慨深げに言っていました。僕に「俺は、日本人が好きだ」と言うバートを見て、これは、僕への社交辞令ではなく、あの女性との思い出から来ている発言だろうと思いました。

 こうして、バートとは、頻繁に会うことになりました。彼は、プロの大工で、家も一軒自分で作ることができるほど、木造工事、コンクリート工事、電気、配管などに精通していました。すでに、退職していましたが、僕は彼からいろんなことを学びました。家のことで、わからないことがあると、僕はいつも彼の家のドアをノックして、彼の助けを求めたものです。僕の左隣の家に引っ越してきたネイトという人は、バートの持つ技術や知識に舌を巻いたようで、僕に向かって「俺は、将来、バートみたいになりたい。それが目標だ」とまで言いました。

 祝日になると必ず、彼の家の前にある旗ざおには、星条旗が掲げられていました。国家に忠誠を誓った退役軍人の彼は、曲がったことが嫌いで、清潔で率直に生きようとしていました。そんな彼は、短気な面もあり、自分の意見をはっきり面と向かって言うので、僕は、その度に、「バートはまた始まったな」と言ったものです。

 ある日、僕は、彼の家のキッチンで、コーヒーをご馳走になりながら、いろんな話をしていました。

 そこで、面白い議題になりました。それは、社会福祉の政策を強化すると、人々は怠け者になる、という論調が出てきたのです。彼曰く、私たちは皆、勤勉でなければならない。仕事をして、自分を支え、家族を支えるのが、国民の義務であり、それができなえれば、できるようにすれば良いのだ、と言うのです。それができない人に、社会福祉の援助をするから、人はもっとダメになるのだ、と主張しました。

 それは、僕から見ると、社会的弱者の切り捨てになるのでは、と言うと、彼は、「弱者は強くなれば良いのだ」と言い切ります。

 僕の家の右隣には、ペリーという隣人が住んでいます。彼は、熱狂的な民主党支持者で、選挙のたびに、彼の前庭に、民主党候補者の看板が置かれています。

 ペリーとバートがどうもうまくいっていないと、他の近隣の友が僕に言ってくれました。

 僕は、あのバートの論調とペリーの考えでは、うまくいかなくても当然かなと思いました。アメリカは、二大政党の政治体制なので、こと政治になると、アメリカ人同士が二つに分かれてしまいがちです。

 僕は、バートともペリーとも仲良く付き合ってきましたが、バートの私的見解や、性格はともあれ、お互いに助け合って、信頼し合って生活ができたことを、喜ばしく思っています。

 バートは、90歳を超えると、足腰が弱くなり、車椅子に頼る生活を強いられました。奥さんのベティはすでに亡くなってしまい、一人暮らしの彼でしたが、僕には、「俺は元気だ」と笑顔を見せ続けていましたが、冗談ぽく、「そろそろ俺も終わりかな」とも言うのです。

 それから、何回か、自宅で転んでしまい、入退院を繰り返していましたが、頑固に一人で生活を続けていました。ところが、とうとうバートの彼の娘さんが現れ、バートを強制的に施設に預けたのです。彼は、大変、不服だったようで、施設に入って数ヶ月で亡くなってしまいました。人の面倒は喜んでするが、人から面倒を見られるのが大嫌いな彼は、施設で面倒を見られるのが耐えられなかったのかも知れません。彼が信じていた「社会福祉は怠け者を作る」ということは、「人から面倒を見てもらうことは、自分をダメにする」ということに通じていたのでしょう。

 彼の葬儀に参列しましたが、心からバートに感謝をし、ゆっくり休んでくれるように、位牌に向かって伝えました。

サワロの育ての親

 アリゾナの風景画や写真などに頻繁に登場してくる巨大なサボテンは、サワロという名で呼ばれています。英語でsaguaroというスペリングですが、gを発音しません。人間が両腕を上げているような形の枝が特徴ですが、皆さんが見るサワロのほとんどは、皆さんが生まれる前からその場に立っているのです。成長が遅く、長生きする巨大サボテンは、150年から200年の寿命があります。

 このサボテンの花は、アリゾナの州花になっています。毎年5月から6月に幹の頂上や枝の先に白い美しい花を咲かせ、花が散ると、残った果実を食べに鳥がやってきます。

 僕は、時々、ロサンゼルスに車で行きますが、インターステート10号の高速道路を走ります。ロサンゼルスからアリゾナのフェニックスに向かう途中で、州境を通ります。カリフォルニア州とアリゾナ州の州境は、コロラド川で、この川を通過すると、「ようこそアリゾナへ」という看板が出てきます。そして、アリゾナ州に入るとすぐ、サワロが見えてくるのです。まさに、サワロはアリゾナのシンボルです。

 さて、サワロのことを調べていたら、面白い事実を見つけ、驚きました。サワロには、育ての親の役を果たす植物があるのです。もちろん、全部のサワロに該当することはないと思いますが、多くのサワロは、小さい苗のような時に、ある木に守られて育つのです。自然の調和というか、宇宙の法則というか、誠にそのシステムに感動したことを覚えています。

 サワロの花が咲くと、その周りにミツバチなどが蜜を求めてやってきます。こうして受粉が行われ、花が散ると果実が残ります。この果実を食べに、鳥がやってきます。

 さて、アリゾナによく繁殖しているパロバーデという木があります。砂漠のあちこちで見ることができます、この木は、アリゾナの州木に指定されています。

 さて、サワロの果実を食べた鳥が、パロバーデの木に止まります。この木は、枝と葉が多く、鳥にとっては格好の休息の場です。その木に止まった鳥は、フンを落とします。そのフンの中に、消化されなかったサワロの種が入っています。

 サワロの種は、パロバーデの木の下に落とされると、やがて芽を出します。パロバーデの木のお陰で、強烈な直射日光を避け、十分な日陰と湿気を保ち、若芽が成長し始めます。若いサワロは、こうして、木に守られて、スクスクと育つのです。パロバーデが落とす葉は、サワロの養分となり、水分は、パロバーデの根から吸収します。

 そして、いよいよ大きなサワロに成長すると、パロバーデの木を押し退けて、やがて巨大なサボテンとして、王者の風格を現します。一方、パロバーデは、サワロを育てる役を終え、倒れて死んでいき、やがて砂漠の地の戻っていきます。

 こうした役目をする植物は、「ナース・プラント」と呼ばれ、まさに献身的な乳母の植物なのです。このように、アリゾナの砂漠は、何千、何万年と、夥しい数の植物、動物、鳥類、昆虫などがお互い共存しあって、その調和の美を作ってきたのです。

monument valley at sunset

ナバホの精神的混乱

 ある日、北アリゾナに写真を撮りに行く予定にしていると、それを知った友人が、ナバホ・ネーションに住む知人に会ってくれと頼んできました。その知人というのは、州高速道路89号をまっすぐ北に向かって、ペイジに行く途中にあるツーバシティとい小さな町に住んでいるとのことでした。

 僕は了解し、住所をくれるように頼みました。

 そこで、初めて知ったのですが、ナバホ・ネーションの中には、道路の名前も住所の番号もないんです。この人の家は、その行き先を書いた紙に従って訪ねる以外、方法がありません。その行き先というは、ガソリンスタンドが見えたら、左折し、しばらく行くと、大きな松の木があるので、その前を右に行き、黄色い壁の家が見えたら、左折をし、その先にある青い屋根の家が彼の家、というものでした。

 幸いにして、彼の家が見つかり、辿り着きました。

 彼は、40代の独身男性。ナバホ族として、生まれ育ちました。

 彼は、自分が精神的に困惑した状況を、長い間経験してきたと言いました。そこで、どんなことかと尋ねると、このような経緯を話してくれました。

 彼は、小さい頃から、おじいちゃんとおばあちゃんから色んなナバホ伝統の話を聞かされてきました。そして、ナバホが信じてきたものが当たり前と思っていました。あの山は神。この川は神。この木々は神。周囲の自然のあらゆるものに神を見つけ、神聖なものとして崇めていました。

 ところが、近くに教会ができ、そこに行くように言われました。教会では、神は唯一絶対神で、その神以外に神はいないと言うのです。つまり、白人がキリスト教の教えを強要してきたのです。そこで、神は、唯一というように信じていきました。そして、高校卒業と同時に、米軍に志願しました。志願すれば、教育を受けることができます。フェニックスなどの都会に行って、大学に入るには、資金が足りません。

 米軍に入隊すると、今度は、国家への絶対忠誠を教わりました。そして、何年か後に、退役し、再びナバホ・ネーションに戻ってきたのです。

 そこには、小さい頃聞いたナバホ伝統の教えがありました。しかし、彼は、この経緯の中で、精神的な混乱をどう克服したら良いか回答が出ませんでした。彼は、完全にアメリカ人となれず、完全にナバホにもなれないのです。

 そこで、アルコールに手を出し、精神の空白を酒で埋めようとしたのです。

 僕が彼の家に伺った時は、彼は、アルコールから抜け出て、何かを求めていたようです。

 先住民の間には、このような精神的苦渋が慢性的に広がっています。白人たちが来る以前から、この地で生活をしていた先住民が、白人の侵略によって、その伝統思想や伝統宗教、伝統文化を剥ぎ取られてしまった人々です。

people silhouette during sunset

個性が生きるアメリカ

 僕がアリゾナ州立大学を卒業し、念願だったアメリカでの就職を勝ち取った時は、最高に嬉しかったです。僕は、何としても永住権を取得して、ここ、アメリカにいようと思っていましたので、就職先での面接で、そのことを伝えました。会社側は、快く受け入れてくれて、採用がその場で決まり、就職するや否や、移民弁護士を雇ってくれたのです。

 さて、僕のことを気に入ってくれた社長のリチャードさん。そして、その下で働いている社員を一人一人見ながら、僕は、何と個性豊かな人たちだろうと感嘆しました。

 日本でもサラリーマンをした経験がある僕は、日本の会社と比べて、実に一人一人が異なった性格と資質を輝かせていて、時には、皆の前で、意見の違いから大声で放ちながら不合意や不満を表現し合っているのです。それでいて、その数分後は、何もなかったかのように、仕事を一緒にしている彼ら。

 社長のリチャードさんは、エンジニア。コンピュータ関係の会社を立ち上げ、日本の会社と合弁という形で、アリゾナの法人を経営していました。そこで、日本人の社員が必要となり、探していたところ、僕の履歴書を受け取り、面接してくれた人です。こちらでは、上司を役職で呼ぶことなく、ファーストネームで呼び合うのです。これは、僕には驚きでしたが、すぐに慣れました。

 頭の切れは最高でした。口もすごく、次から次へと専門知識やらその応用やら、彼のアイデアが弾丸のように、口から飛び出てきます。その当時から彼は、いつかAIの時代が来ると何度も僕に言っていました。まだ、AIなどニュースにもならない時でしたが、先見の明ありです。

 ところが、個人としては、あまり金銭感覚に優れた面が見受けられず、収入と支出のバランスがよく見えていないようでした。彼は、離婚後、一人で小さなトレーラーハウスに住んでいて、何回もエンコする自動車を修理につぐ修理を繰り返して、かろうじて乗っていました。

 僕の後に入社してきたモハメッドさん。アラブ系で、敬虔なイスラム教徒。その彼もエンジニアとして、入社してきました。

 その後、ハルクさんというトルコ人が入社してきました。彼もイスラム教徒だそうですが、宗教には無関心とのことでした。そして、ニュージーランドから研修生として一人の男性、ジェフが入ってきました。彼とは、年齢が同じだった僕は、よく一緒に食事に行ったりしたものです。ただ、ニュージーランドの英語が、僕は、なかなか理解できず、閉口しました。彼も、日本語訛りの僕の英語がよくわからないようでした。社内で僕と彼とのやりとりを聞いていたアメリカ人の社員が、笑顔で通訳で入ってくれたりしたのを覚えています。多分、僕と彼との会話は、滑稽だったようです。

 こんな会社ですから、それぞれの違いだけを挙げれば、キリが無いほどですが、それぞれの個性を尊重しながら、会社として成り立っていました。

 アメリカには、終身雇用制などありませんから、彼らも何か違う会社や違う仕事が見つかれば、すぐ辞めてどこかに行ってしまうのです。

 実は僕も似たような状況で、永住権取得後、この会社を辞めました。

 このように他の人と同じようにしなければならないという社会規制がない国や団体こそ、僕が大好きな環境なのです。

 人はそれぞれ違っていて当たり前で、その個性を十分に活かしていけば良いのです。その上で、団体として、一緒に仕事ができれば、素晴らしいのではないでしょうか。差異と和合は、共存できるものです。

man in black hoodie using cellphone

人種差別の痛み

 僕がアメリカに来た頃は、すでに第二次世界大戦はとうの昔に終わっていて、日本は、高度経済成長を遂げ、全世界でもアメリカに次ぐ経済大国になっていました。

 日本製の電気製品などがアメリカ市場にも溢れ、日本車が堂々とアメリカの道を走っていて、メード・イン・ジャパンは、良質な製品と、もっぱらの評判でした。

 ですから、日本から来ましたと言っても、僕より前の世代が「ジャップ」と呼ばれて軽蔑されるようなことは、経験しませんでした。

 しかし、黒人への差別は、目にすることがあり、また、ラティノの系やアメリカ・インディアンと呼ばれる先住民の人たちは、辛い思いを長い間強いられて来ましたし、今も、続いているのが現実です。

 鮮明に覚えていることがあります。それは、9.11同時多発テロが起きた時です。アメリカは、明白に攻撃されたのです。その日から、アラブ系アメリカ人への敵視は、どれほど多くの人たちを、差別の痛みに追いやったことでしょうか。しかも、アリゾナで、信じられない事件が起き、ニュースで大々的に報道されました。それは、あるガソリンスタンドで、インド人が銃弾で殺害された事件です。このインド人は、シーク教徒で、頭にターバンを巻き、ひげをたくわえていましたが、イスラム教徒と間違えられて、殺されてしまったのです。何と悲惨な事件で、しかも無知甚だしい犯人の動機だったのです。

 国中は、星条旗を掲げた自動車が何台も走っていて、アメリカという国家に忠誠を持つか持たないかで、敵か味方かが区別されるような、単純な二元論が罷り通ったのです。

 僕はアリゾナにいて、多人種の国の課題をひしひしと感じていました。

 アラブ系アメリカ人への仕打ちは、かつて日系アメリカ人が経験した、あの強制収容の忌まわしい歴史の繰り返しかと思いました。

 最近では、コロナ禍に襲われていた時、コロナ菌は、中国から入ってきたという情報が広がると、まるで中国人だけでなくアジア人も、コロナの責任を持つ危険な人種であるかのように感じた人たちが多くいました。

 サンフランシスコの中華街やら、ニューヨークの街中で、アジア人が暴力を振るわれて病院に送られたという惨事が次々と報道されました。

 ちょうどその頃のある日です。僕は、買い物を終え、店の駐車場で僕の車に乗ろうとしていました。すると、隣に、大きな赤いトラックが止まりました。そして、ある高齢の白人男性が降りてきました。彼は、僕を見るなり、何かを言い始めたのです。彼はマスクをしていたので、よく聞き取れないでいると、彼は、何回も何かを叫んでいるようです。そこで、よく耳を傾けて聞いてみると、何と彼は、僕に向かって、「ゴーバック・トゥ・チャイナ(中国に戻れ)」と言っているではありませんか。僕は、もちろん中国人ではないんですが、彼にとっては、そんなことは、どうでも良く、アジア人は中国に戻れ、と言っているんです。

 僕は、カッときましたが、「黙れ、このジジイ」と叫んで、その場を去りました。

 何と無理解な白人かと呆れてしまいました。

 さて、冷静になって考えてみると、こうしたことの奥には、ある種の恐怖感と危機感が流れているのではないかと思うようになりました。

 僕は、「オアシス」の出版の仕事をしていて、アメリカの人口統計を何回も見たんですが、今世紀の中盤ごろには、白人はいわゆるマイノリティになってしまうことが予想されています。これには、白人の出生率が極めて低い一方、非白人の出生率、特にラティノ系の出生率が非常に高く、このままでいくと、2050年か2060年頃には、白人の人口は、全米の過半数を割ることになります。しかも、白人と他人種との結婚も多くなり、白人だけの人口の割合は、減少を続けているのです。このことへの恐怖を持つ白人層がいることは確かでしょう。さらに、移住の国アメリカは、他国からいろんな人が次々とやってきます。9.11以来、アメリカへの移住を厳しくし、門戸が非常に狭くなっていますが、移住を止めることはできません。キリスト教以外の宗教もアメリカに広がります。

 これまで、白人のキリスト教徒が全米を仕切っていた時代は、すでに昔となりつつあるのです。この流れに不安を感じる人は、少なくないでしょう。実際、リプレイスメント・セオリーなどという馬鹿げた白人至上主義が一部の人たちの間でまかり通っているのです。つまり、白人が非白人に置き換えられるという危機感を煽る離村です。

 アメリカが本当の意味でメルティングポットになり、他人種同士が差別なく生きていくようになるには、まだまだ時間がかかりそうです。しかし、そうならなければ、この国は、一つの国として成り立たないはずです。 僕の周囲には、実に多くの友人がいます。白人、黒人、メキシコ人、日系人、アラブ人、など。差異にこだわる時代を乗り越え、差異に価値を見出す時代の到来を期待しています。