忘れてはいけない過去
僕がイノシタさんと初めて会ったのは、確か1998年に、日本関係のイベントに行った時のことだったと思います。
日焼けしてたくましい顔に笑顔を絶やさない人で、会ってすぐ好感を持ちました。もう80歳近いと言われて、年を取ったと笑っていました。アリゾナのグレンデール市で長い間農業をしていたとのことで、農作業で鍛えた体には、想像を超える苦闘の歴史があったように感じました。

そこで、イノシタさんが第二次世界大戦中、米兵として日本に行ったことを知り、彼の人生に興味を持った僕は、色々と尋ねたんです。
そこで、何か、今まで全く知らされていなかった歴史を、少し垣間見たように思いました。ちょうど月刊「オアシス」を発行して間もなくだった僕は、彼の家に伺って、インタビューしたいと思い、その旨を彼に伝えたのです。すると、「インタビューなんて、大それたことは、、、」なんて、恐縮していましたが、僕が是非とお願いし、実現することになりました。
イノシタ・マサジ。漢字では井下正次。日系2世のアメリカ人。ご自宅に伺うと奥さんにも会えました。奥さんも日系2世アメリカ人のヒサエさん。
イノシタさんは、熊本県からアメリカに移住してきたご両親の間に生まれ、カリフォルニア州のフレスノで育ちました。1919年生まれとのこと。
楽しく育った一家を襲ったのが、強制退去と強制収容という理不尽なアメリカ政府からの処遇だったのです。
1941年12月7日、日本軍がハワイのパールハーバーを襲撃。この日を境に、日系人は、アメリカ生まれの市民であるにもかかわらず、急遽、敵性外国人というラベルを貼られてしますのです。
パールハーバー襲撃から2日も経つと、FBIがイノシタ宅に現れ、お父さんが連行されます。翌年4月には、一家が立退を強制され、アリゾナのヒラリバー強制収容所に連れて行かれました。
収容所に入れられた日系人は、全員、米国への忠誠を試され、書類にそれを明記されることを求められました。中には、忠誠を拒否し、さらに厳しい収容所に連行される人も多く出ました。
さて、イノシタさんは、忠誠を表明し、さらに米軍への志願をしたのです。当時、米軍は、日本語がわかる兵士を求めていたのでしょう。収容所に入っている若い男性に志願を勧めていました。
イノシタさんは、自分が志願すれば、収容所に入っている両親や兄弟が、政府から良く見られるのでは、という期待があったと話してくれました。
ところが、この志願が、イノシタさんを苦境に追いやったのです。周りの一世や帰米という一時的に日本に戻って教育を受けた後、アメリカに戻ってきた二世の人たちから、ひどい非難をされたのです。
イノシタさんは、家族からも冷たい扱いを受け、お父さんとは難しい関係になってしまったようです。戦争が終わり、除隊してグレンデールで農業をしていた家に戻ると、農業の手伝いもさせてもらわす、一人で家を出て、転々と農家で仕事をしました。「ずいぶん貧乏をしましたよ」と笑う。
こうした苦渋の時を過ごしながら、アリゾナの日系人社会に根を下ろし、さまざまな分野でボランティアとして活動してきました。学校や教会などに招待されて、当時の収容所の話をし、戦争の悲惨さを訴えたのもイノシタさんでした。
彼の話を何回か聞くチャンスがありましたが、そこには、戦争への憎悪、平和への希求、そして、国家と国民の在り方などを考える機会を、一般市民に提供していたように思います。
国家への忠誠がもたらした家族の離散。戦争の正当化と少数民族への偏見。国家のためという大義面分で苦しみを負う一般市民。
イノシタさんは、奥さんを亡くしてから、一人で生活をしていましたが、会うたびに見せてくれた笑顔は、今でも忘れられません。その後、故人となってからも、イノシタさんが僕に教えてくれた人の生き方を、僕も大事にしていこうと思っています。
歴史の教科書には、登場しない彼ですが、実は、数えきれないほどのイノシタさんが、このアメリカの国にいて、社会を支えてきたことを、決して忘れてはならないのです。


記念碑を前にスピーチをするイノシタさん(2011年11月6日)
イノシタさんが収容されたヒラリバーの収容所は、その姿こそ消えてしまっていますが、彼が何回も訪れて清掃をしたヒラリバー収容所跡記念碑は、これからもその歴史を伝え続けていきます。