このページに掲載されている記事は、月刊じょうほう「オアシス」誌の記事を出版後に校正し直したものです。
アリゾナの州立大学(2)
2002年10月号
今月は、テンピにあるアリゾナ州立大学 (Arizona State University)を訪れてみよう。この大学の過去1世紀の歴史と業績は、アリゾナ州に多大な影響を及ぼしてきた。現在、経営、マーケティング、通信技術などの学部に学生の人気が集まっている超マンモス大学となっている。 当大学は、テンピのメイン・キャンパス以外にグレンデールに西キャンパス、そして、フェニックスのダウンタウンにもキャンパスを広げている。 |
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ヘイデンの活躍 |
アリゾナ州立大学は、1885年に師範学校として出発した。この学校創立の立役者は、チャールズ・トランブル・ヘイデンだった。ヘイデンは、ツーソンで裁判官に任命されていた。ある日、ソルト・リバー周辺を訪れた彼は、そこに残された古代先住民のホホカム族が遺していった用水路を見る。そして、農業を営む目的で現在のテンピに移住し、テンピのパイオニアとなった。周囲からはヘイデン裁判官、またの名をドン・カルロスとも呼ばれて、テンピ建設の中心者となっていった。 |
敷地提供者ウィルソンオールド・メイン。1898年に完成した3階建ての校舎 |
ヘイデンが議会でロビー活動をしている時、ひとつの妙案が挙がった。個人の敷地を準州政府に寄付す業者れば、テンピの学校設立に好条件を備える事ができると考えた。当時、テンピで20エーカーの牧草地を持っていた屠殺業者ジョージ・ウィルソンは、自分の敷地の内5エーカーを安価で売却すると申し出た。この土地は、現在のユニバーシティー・ドライブの南側に当る場所で、1エーカー100ドルで売られ、テンピ市民がそれぞれポケットマネーを捻出して出し合った。ところが、後に合計で20エーカー必要なことが確認され、ウィルソン夫妻は、全てを捨てる覚悟で、残りの15エーカーの土地を学校に寄付したのだ。その後、妻のマーサが亡くなると、ジョージ・ウィルソンは、校舎の管理人として1916年の死去まで学校に尽くした。 |
経営危機の大学を救ったガメージガメージ講堂(ASUの発展に大きな功績を残したグレーディー・ガメージ学長を賞賛して建設された。1964年完成。設計は、世界的に有名でアリゾナにその設計事務所を置いたフランク・ロイド・ライトのもの。コンサート、公演などに使われている)
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1930年代は全世界も動乱の時代。あの大恐慌が世界を震撼させた。大学も例外ではない。当時はアリゾナ教育大学 (Arizona State Teachers College)と呼ばれていたASUが新たな学長を任命された。 |
名称の変遷 |
州の発展と共に大学も発展を続け、名前も変遷を続けてきた。 |
公式サイト |
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